ちょっとお花見 ~寺坂吉右衛門の墓 ― 2011年04月17日 23時51分45秒
4月17日日曜日
「タイヤ交換したか?」と聞かれるまですっかり忘れていました。
というよりも、車が砂埃に塗れようともそのままでしたし、
この事態にそんなことを考える余裕もありませんでした。
というよりも、車が砂埃に塗れようともそのままでしたし、
この事態にそんなことを考える余裕もありませんでした。
ディーラーの一年点検の案内がそういえば震災前に来ていたのですが、
ショールームなどガラス張りの店舗はかなりの確率で被害が出ているため、
どうなっているか分からず、電話をかけるのを遠慮していました。
電話してみるとお店は通常営業ですんなり予約OK。
一緒にタイヤ交換もお願いすると、無料で出来ました。
一年点検のなかにタイヤを外す工程があるので、
そこで一緒にやってしまうと工賃が発生しないのですと。
なるほどー。ありがたや!
ディーラーは整備所の屋根が傾いていましたが、
ショールームもスタッフの皆さんも無事でなによりでした。
ショールームもスタッフの皆さんも無事でなによりでした。
さて、点検には一時間半ほど時間がかかるので散歩することに。
ずんずこ歩いて歩いて、泉七北田にある実相寺まで行きました。
実相寺・・・と言ってもウルトラシリーズのあの御方ではなく。
このお寺の境内には寺坂吉右ヱ門の墓(と言われる)があり、
ちょっとした名所なのです。
このお寺の境内には寺坂吉右ヱ門の墓(と言われる)があり、
ちょっとした名所なのです。

寺坂吉右ヱ門は赤穂浪士の討入り後の生存者で、
仏門に入り諸国をまわり、晩年この地を終の棲家としたと言われています。
(全国に他数箇所、そのように言われている地があるそうです。)
仏門に入り諸国をまわり、晩年この地を終の棲家としたと言われています。
(全国に他数箇所、そのように言われている地があるそうです。)
境内は桜が満開でした。よくみるともう若芽が出ている様なところも。
桜の木の下の寺坂吉右ヱ門の墓。
この地に起こった天変地異を土の下で何を思っているのでしょうか。
この地に起こった天変地異を土の下で何を思っているのでしょうか。
この日は気温も温かく、青空も澄みきってよき花見日和でした。
桜並木が全開フルパワーになるにはもう少しでしたが、
少数精鋭部隊はもう準備万端とばかりにその花が舞う頃合を窺っています。
桜並木が全開フルパワーになるにはもう少しでしたが、
少数精鋭部隊はもう準備万端とばかりにその花が舞う頃合を窺っています。
こんなときに花を、とも心のどこかでも思うものの、
こんなときでも花はちゃんと生命を繋いで咲き誇っています。
今年の桜はとくに綺麗だと感じる人は多いのではないでしょうか。
しかし花はいつの年も咲き、ただ日々の営みを続けているだけならば、
綺麗だと感じるのは僕らの心境の変化によるものなのかもしれませんね。
綺麗だと感じるのは僕らの心境の変化によるものなのかもしれませんね。
お寺までの道は参道というよりも、住宅と住宅の間の生活路なので、
あまり騒がしくはできませんが、少しだけほっとすることができました。
あまり騒がしくはできませんが、少しだけほっとすることができました。
震災後、野蒜そして東名 ― 2011年04月04日 23時26分27秒
4月3日日曜日
東松島市、野蒜(のびる)の近く、東名(とうな)という町があります。
仙石線の野蒜駅の上り側の次が東名駅です。
テレビや新聞、ラジオをこまめにチェックしていましたが、
このあたりの状況が報道されたことは数えるほどで、
地元の方のお話でもほとんど無いと言うことです。
この町も津波が直撃し、壊滅的という言葉すら上回る状況です。
仙石線の野蒜駅の上り側の次が東名駅です。
テレビや新聞、ラジオをこまめにチェックしていましたが、
このあたりの状況が報道されたことは数えるほどで、
地元の方のお話でもほとんど無いと言うことです。
この町も津波が直撃し、壊滅的という言葉すら上回る状況です。
親戚の家がここで被害に遭ったため、
避難所にいることを確かめた上で石巻の後、物資を持って向いました。
避難所にいることを確かめた上で石巻の後、物資を持って向いました。
三陸道を降り野蒜駅方面に向うと、川原に瓦礫が散乱し、
川の中に車、コンテナ、家だったものが増えてきます。
決してこの光景を忘れてはならないと、手を合わせて記録します。
川の中に車、コンテナ、家だったものが増えてきます。
決してこの光景を忘れてはならないと、手を合わせて記録します。

避難所で親戚のおじさん達と無事会うことができ、当時の話を聞きます。
波に流されたこと、町の状況、本当に九死に一生を得たという経験、
支援物資はあるけれども、津波を被った後でお風呂が自由に入れないこと、
これから仮設住宅を建てようにもその資材がないこと、
十分に建てられるまで1年かかるだろう、ということが生の声で入ってきます。
1年・・・、僕らの1年よりもずっと、それは長いように感じられます。
それでもみんなは力を合わせて立ち上がろうとしています。
それでもみんなは力を合わせて立ち上がろうとしています。
家があった場所を見に行くため、東名の町に向いました。
野蒜駅に近づいていくと景色が急変します。
数年前、近辺の民宿に行くときに見た光景も、
津波が過ぎた林や運河はすっかり形が変わっていました。

運河の中に何軒もの家が沈み、木々もあり得ない場所に折り重なっています。
道路はコンクリートもアスファルトも端から削り取られ、一車線が半分しかありません。
瓦礫が囲み砂煙が舞い上がるなか、自衛隊の車が待機するその光景は、
ここは本当に日本なのか、アフガニスタンではないのだろうかとさえ感じます。
道路はコンクリートもアスファルトも端から削り取られ、一車線が半分しかありません。
瓦礫が囲み砂煙が舞い上がるなか、自衛隊の車が待機するその光景は、
ここは本当に日本なのか、アフガニスタンではないのだろうかとさえ感じます。
野蒜駅は形をとどめていましたが、線路の上を大量の瓦礫が塞いでいます。
しかし、それを撤去すれば通過できるという単純なものではありません。
それは駅から先に行った踏切で思い知らされます。
しかし、それを撤去すれば通過できるという単純なものではありません。
それは駅から先に行った踏切で思い知らされます。
これは柵が建てられているのではありません。
津波によって線路が枕木から引っぺがされ、縦向きに捻じ曲がっているのです。
これではいくら早く再開して欲しいと言っても見通しが立たないのも当然です。
津波によって線路が枕木から引っぺがされ、縦向きに捻じ曲がっているのです。
これではいくら早く再開して欲しいと言っても見通しが立たないのも当然です。
この付近まで来るともう、家々は骸骨のようになっていました。
土台、基礎部分だけしか残っていない場所も少なくなく、
元の場所に建っている家も一階部分は爪で抉り取られたかの様です。
そもそも、そこに元々あった家なのか流されてきた家なのか、
それすらも判別が困難な場所もあります。


道路は瓦礫が除けられ、車が通過できるようになっているものの、
地面の高さが変わり、満潮時に海水が浸食してくる様です。
このまま進むと車がやがて錆付いて動かなくなるため、
車を降りて割れた瓦やガラス、折れたパイプをかき分けて進みます。
生活を感じさせるなにもかもがボロボロになって散らばっている。
ふと、泥の中にぬいぐるみが目に入りました。大きなキティちゃんでした。
2歳児ぐらいの大きなキティちゃんがうつ伏せになっているので、
起こそうとしましたが顔を見て、そっともとに戻しました。
ふと、泥の中にぬいぐるみが目に入りました。大きなキティちゃんでした。
2歳児ぐらいの大きなキティちゃんがうつ伏せになっているので、
起こそうとしましたが顔を見て、そっともとに戻しました。
辿り着いた目的の場所には、何もありませんでした。
家がなくなるということを、本当に跡形もなくなくなるということを、
一体どれほどの人が考えたことがあるでしょうか。
ただただ、言葉がでない。
悲しみが多すぎます。
仙台の自宅への帰路につくと、今度はきちんと建っている建物が、
舗装されている道路の方が夢の様に、現実感がなくなっていました。
そしてその思いはビルが立ち並ぶ中心部に行くと一層強まります。
はたしてどちらが夢なのか現実なのか。
もちろん、どちらも現実なのです。
ニュージーランドで、ハイチで起こったことも、
その起こったときにのほほんとしていた僕のどちらも現実。
もちろん、どちらも現実なのです。
ニュージーランドで、ハイチで起こったことも、
その起こったときにのほほんとしていた僕のどちらも現実。
何も分かっていなかったのではないか。
罪悪感を抱きながらと再開したにも関わらず、
こうして書くことが、生きていることも罪の様に思えてくる。
帰り着くとその日は泥のように眠りました。
しかしふつふつと沸いてくる想いもあります。
あの光景を目の当たりにすればこちらの不自由などなんぼのものか。
ブロックが崩れたガラスが割れただけのがどうしたとさえ思う。
些細なことで不満を感じるなど馬鹿らしく思えてくる。
希望の想いと憤怒の想いが入り混じって整理がつかない。
あの光景を目の当たりにすればこちらの不自由などなんぼのものか。
ブロックが崩れたガラスが割れただけのがどうしたとさえ思う。
些細なことで不満を感じるなど馬鹿らしく思えてくる。
希望の想いと憤怒の想いが入り混じって整理がつかない。
生かされて、生きていかねばなりません。
これを記録しなければなりません。
これを忘れてはなりません。
震災後、石巻を訪ねる ― 2011年04月03日 23時18分57秒
4月3日。
ガソリンがなんとか目処がつき始めたので、
石巻方面にお墓の様子を見に行くことにしました。
母と多賀城の伯母を車に乗せて朝に仙台を発ちました。
生活が安定してきたとはいえ、これから向うところは
報道で知る限り自分達の地域よりも被害を受けているところ。
自分達は明るさを保っているものの、やはり緊張があります。
生活が安定してきたとはいえ、これから向うところは
報道で知る限り自分達の地域よりも被害を受けているところ。
自分達は明るさを保っているものの、やはり緊張があります。
三陸自動車道に接続する際、多賀城の国道45号を通ります。


先日の訪問では分からなかった、多賀城の、
まだ道路脇に詰まれた瓦礫を目撃しました。
ここに来る前にも、川を渡る時に橋の上から、
波に運ばれてきた船が何隻もひっくり返っている光景を見ています。
まだ道路脇に詰まれた瓦礫を目撃しました。
ここに来る前にも、川を渡る時に橋の上から、
波に運ばれてきた船が何隻もひっくり返っている光景を見ています。
三陸自動車道は震災前にはどの人も高速道路の感覚で通過していましたが、
(実際は高速道路ではない。)この日は日曜ということもあり、
ガソリン確保がなんとか安定してきた人達が次々に親戚家族の下へ向う様で、
通常の道路の様に渋滞が生じておりかなり低速での通過になっていました。
その車の列の中には、先に行くほどに自衛隊の車両が目に付くようになります。
今、日本の人々にもっとも求められ、活躍していると言っていい自衛隊。
かつて自衛隊の皆さんに暴言を浴びせた人々へ、どう見ても
その行動をもって一矢を報いるかたちとなったにも関わらず、
どうだこれこそが、などというちっぽけなプライドはとっくに投捨てて、
ただひたすらに人々を助け続けることに専念する姿にただ頭が下がります。
人々の顔が明らかに感謝の目で見ていることがわかります。
その行動をもって一矢を報いるかたちとなったにも関わらず、
どうだこれこそが、などというちっぽけなプライドはとっくに投捨てて、
ただひたすらに人々を助け続けることに専念する姿にただ頭が下がります。
人々の顔が明らかに感謝の目で見ていることがわかります。
石巻河南で三陸道を降りると、一見すると落ち着いている様に見えますが、
よく見ると震災の前よりも道路には土埃が舞い、
田畑は泥を被った様になり、やはり被害の爪あとを感じます。
一言に石巻と言っても、市町村合併で広域になっているので、
石巻のなかでの地域によっての差もありますが、
この数年で開発が進んだ蛇田地区の生協やヨーカドー、
セブンイレブンなどに立ち寄ると、トイレなどに制限があったりするものの、
品揃えと総量に関しては仙台の方より豊富なのではと思えました。
こちらの方面への物資搬送が優先されているということなのか、
このさらに先の海岸地域へも行き渡ることを祈ります。
一方で閉店しているところもまだまだ多く、
かつて、石巻焼きそばを頂いた「廻鮮丸」も休業状態。
この時は石巻焼きそばの幟は見つけることはできませんでした。
少しでも早く、あの町おこしを担うB級グルメが帰って来ることを願います。
住宅の状況は、ライフラインも復旧し始めているものの、
石巻では湿地を埋め立てた地盤のゆるいところもあり、
その上に建っていた家は土台ごと数十センチ下に落ち、
そうなるとパイプは損壊し、ただハコがある様な状態。
そんな状態で住まなくなっている家もあり、
すぐ近くに仮設住宅と見られる建物が建てられていました。
お墓に着いた我々を待ち受けていたのは予想を上回る光景でした。
墓石がずれ、崩れ、捻られ、飛んでいる、あらゆる動きをしている。
墓石を持ち上げようとしたことのある人などそう滅多にいると思えませんが、
あの重い墓石が子供が積み木を散らかした様に散乱していました。
(石によりますが、○○家と書かれる部分の竿石は100kgぐらいあるものも)
あの重い墓石が子供が積み木を散らかした様に散乱していました。
(石によりますが、○○家と書かれる部分の竿石は100kgぐらいあるものも)
石灯籠は砕け、地蔵様は首からポッキリ折れ、
竿石が隣家どころかどこへ飛んでいったか分からないお墓もあり、
通路すらふさがれている様な状態で、お寺も一部が損壊していました。
一時的に寝かされて涅槃仏の様になっている像や、
達磨落しの様な絶妙なバランスでツイストされた墓石には絶句しました。
これではお墓参りを控えてもらう様にお知らせが出るのも無理はありません。

我家のお墓は墓誌がバタンと倒れて花立が飛び、灯籠が砕けました。
墓誌はウンセと元通りに立てるだけで修理費はかかりませんでした。
墓誌はウンセと元通りに立てるだけで修理費はかかりませんでした。
町内会長をやっていた警察官のお祖父ちゃんのこと、
お墓のなかでもどっしりと構えて「みんな落ち着いて」と、
周りに言っていたのかしらと、少し安堵も感じることができました。
お墓のなかでもどっしりと構えて「みんな落ち着いて」と、
周りに言っていたのかしらと、少し安堵も感じることができました。
ところで、酷い状況になっている墓石は最近の新しいものが多い様です。
流行のというか好まれてる、黒いピカピカに磨かれた輸入物の石ほど
どこかに飛んでいってしまっている様です。
逆に昔からある、苔が生えて掘った文字も消えかけてくる灰色の石は、
ほとんど崩れもずれることもなく、微動だにせず静かに立ち続けているのです。












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