「エクレール/お菓子放浪記」 ~ お菓子は誰かのため2011年03月01日 23時15分44秒

試写会にて観賞した「エクレール/お菓子放浪記」についてのこと。

昭和17年。感化院で指導を受けていた孤児の少年・アキオは
彼を引き取りたいという老婆フサノの養子になる。
一見、優しそうなフサノだったが命より金が大事な強欲婆さんだった。

それでもアキオは働き場の映画館の気さくな支配人や、
感化院に入る前にアンパンをくれた優しい刑事、
感化院で面倒を見てくれた教師・陽子の便りを支えにして、
働く場所と寝床と食べ物を提供してくれるフサノも信じていた。

しかし、働けなくなった前の養子をフサノが売飛ばした噂を聞き、
あるとき遂に口論となってフサノの下を飛び出していく。
アキオが次に身を寄せたのは偶然通りかかった旅の一座だった。

一座の手伝いをして方々を巡ったアキオだったが、
激しくなる戦争の波が容赦なく降りかかり一座は解散、
アキオは再びフサノと暮らした町へ戻ってくるのだが、
そこで見た焼け跡の光景はアキオをさらに苦難へと導いていく。


「ふみ子の海」で目の不自由な按摩師の少女が、
ひたひたと迫る戦争の波に負けずに歯を食いしばって生きる様を、
日本の四季の美しさと同時に厳しさをも交えて刻みこんだ近藤監督は、
今回もその手腕を存分に発揮します。

いかにもお菓子が出てきそうなタイトルとは逆に、
劇中にお菓子はそれほど多くは登場しません。
アンパン、きな粉餅、何やら捏ねて作った団子、
あとは平和になった現代に出てくるぐらいのもの。

また、お菓子の登場場面で魔法をかけた様なメルヘンっぽいCGはない。
ただお菓子を前にした、甘いものを渇望したアキオ少年の純粋な喜びと、
それを食べた人の束の間の幸せの表情と感情がふっと漂うに留めます。

しかしそのことがむしろ、厳しい時代背景を映し出し、
映し出された背景がまたお菓子がくれるほんの少しの希望を映し出し、
また、小さなお菓子をよく味わう様にじっくりと染みてくる。

アキオ少年の中で最も輝いているお菓子、それは想像の中にある。
「エクレール」とは、耳慣れない人もいるかもしれませんが、
ケーキ屋さんでも御馴染みの、エクレアのフランス語読みです。

厳しい教員の多い感化院(非行少年を保護して教育する施設。)で、
進歩的な考えを持ち、少年達に目をかけていた教師の陽子は、
アキオ少年に「お菓子と娘」という歌を歌って聞かせます。

西條八十(「人間の証明」の"麦わら帽子の詩"の方)作詞のこの歌は、
西條八十がパリに留学して見たパリの情景の感動から綴ったもので、
歌詞の中で、パリ娘が食べるお菓子として"エクレール"が登場します。
陽子の優しさとともにこの歌を鮮明に覚えていたアキオは、
後に陽子から贈られたお菓子作りの本に収められた写真でエクレールを知る。

以来、アキオは歌を想いながらその味を想像し、いつか食べることを夢見る。
この本をフサノの家から飛び出した際に置き去りにせざるを得なかったため、
アキオは戻ってくると真っ先にこの本を探し始める。
彼にとっては後生大事にしなければならない希望の本、まさに聖書。


この本をめくるときのアキオの心理は僕にもなんとなくわかります。
僕は物のない時代には育たなかったし、幸い普通の家に生まれました。
だから、アキオの生きた時代と同じ体験をすることはなかった。

ただ、2歳の時に腎臓病を患ったための食事制限によって、
幼年期には食べ物はあまり自由には口にできませんでした。
もちろん、甘いお菓子についても厳しく制限をされていました。

そんなときに誰かがくれたのが、食べ物の写真が沢山載っている本です。
確か、カロリー計算のための献立表の様なものだったと思います。
実際には薄い味のものを決められた時間にしか食べられなかった僕は、
ヒマがあればその本を見ていたというのが親から聞いた話です。

そして食べられなかったから、ケーキなどを絵に描いていたりしました。
今、自由に食べられる様になり(一昨年再発した病気はまだ経過観察中ですが)、
カフェやスイーツ巡りをひとつの趣味にしているのはその影響もあってか。


現在では、星の数ほどのお菓子が生み出され気軽に食べられていますが、
お菓子は必要なものというわけではない、と試写会でも繰り返されました。
確かに食事で栄養をきちんと取っていれば必要なものではないと思う。
一方で、適量の甘味は疲労を回復させたり脳に良い影響を与えるという、
医学的、科学的見地からの研究によって諸説が出されています。

しかし、映画を通じて唱えられ、もちろん僕らも自覚しているお菓子の作用は、
その様な物理的なカタチを伴ったものではなくもっと感覚的なものです。
辛い現実の中でたった一口のお菓子がくれるほんの少しのチカラ。
それは、立派な"生きていくために必要なもの"に違いないはずです。

これでまた少し頑張れる、そんな想いを得るために僕らは求める。
(あくまで無意識に。難しいことを考えてたらその想いは逃げていく。)
ただ、それはどうにもこうにもどうにもならない、そんなとき求めるべきであり、
四六時中お菓子に走っていては感覚は麻痺してチカラは薄れていく。

これは中毒の様なもので、我慢と節制を持たなければならない。
滅多に口にしないからこそ、味わったときに身体に宿るものは大きい。
それがお菓子を食べる僕らが見つめ直すべきもののひとつ。


もうひとつ。大事なことは、"誰かのために"ということではないでしょうか。
映画に登場するアンパンと餅は、アキオのために刑事がくれたものであり、
砂糖と粉をこねた団子はアキオがフサノのために作ったものでした。
そして、後にアキオはお菓子がくれる幸せを皆に感じてもらい、
食べた人が笑顔になってもらうために、お菓子職人の道を進みます。

自分に対するご褒美のためにスイーツを食べるのも良いけれども、
誰かのためにスイーツを選んだり作ったり、そして誰かと食べたり、
それこそが一人で味わうよりも何倍何十倍何百倍も幸せではないでしょうか。
それもまた、お菓子がくれる小さな力だと思います。

小さな希望を胸に人と人とが互いを支えあうこと、最後はそれだと思います。
この映画は戦争の時代の現実の厳しさを復員兵などの描写に見られる様に
汚れて荒んだ人々の心を生々しくリアルに追いながらも、
その波に飲まれながらも明るさと夢と希望を支えに立ち上がる人々を
美しい自然とともにファンタジックにも描き、心に温かい火を灯してくれます。


宮城県は桜井薬局セントラルホール、石巻岡田劇場で4月23日から先行公開。
その他の劇場および全国では5月より順次公開。
ぜひ、見て頂きたいと思います。
お菓子を食べるあなたの胸に何かが残れば幸いです。




「男たちの挽歌 - A BETTER TOMORROW」 ~ まだ挽歌は届くか2011年03月02日 23時44分47秒

ジョン・ウーの名作をリメイクした韓国映画、
「男たちの挽歌 - A BETTER TOMORROW」についてのこと。

■「男たちの挽歌 - A BETTER TOMORROW」オフィシャルサイト
 http://banka2011.com/top.html

人は、ジョン・ウー監督の作品にいつ触れたのでしょうか。
ジャン・クロード・ヴァンダムの「ハード・ターゲット」かもしれない。
ニコラス&トラボルタの「フェイス/オフ」かもしれない。
いや、トム・クルーズの「M:i:2」なのでしょうか。
いやいや、「レッドクリフ」が初めてなのかもしれない。

とにもかくにも、ジョン・ウーはハリウッドで活躍するアジア監督であり、
超大作「レッドクリフ」を引っ下げてアジアへの凱旋を果たした。
しかし、香港時代にジョン・ウーの名を知らしめた作品であり、
彼の作品でもっとも人気の高い作品であり、映画史上重要な作品と言えるのは
1986年に製作された「男たちの挽歌」に他ならないのではないでしょうか。

「男たちの挽歌」はその邦題の通り、男たちに捧げる男たちの映画。
弟想いのヤクザな兄と、警察官になる弟の、違う世界で生きる兄弟の絆が、
ときに強く結びつき、ときに激しく引き裂かれようとする様を、
血と汗と硝煙と涙と叫びと、およそ思いつく限りの男の世界を、
それらを極上の美学で綴り彩った、ザッツ・ジョン・ウー映画です。

この映画には綺麗なスクリーンよりも場末の薄暗いスクリーンが似合う。
鮮明に見えない幕の向こう側を見つめるうち、涙に濡れて本当に見えなくなる。
良い過ぎかもしれませんが、それだけ酔える映画です。

男の世界と言っても、ハード・ボイルドともダンディズムとも趣を異にする。
強いて言えばバイオレンスの中で生じる戦場の誓いともいうべき、
拳と感情がぶつかり合ったまま融合して理解しあう様な世界。
そう聞くと暑苦しそうにも聞こえるものの、ジョン・ウーは詩情豊かに、
寂しささえも漂わせて僕らの胸を締め付けていく。

そんなジョン・ウー印は、監督作品のみならず、プロデュース作品にも現れる。
日本のアニメ作品の「エクスマキナ」でさえ、感情表現が何よりも優先された。
監督がプロデュースするときは、個人差はあれども多かれ少なかれ、
実際の製作にも大きく食い込んでいく、いや、それを止めることはできないはず。

だから、韓国映画として製作され、韓国の監督がメガホンを取ると言っても、
ジョン・ウーが製作総指揮にあたる以上、過去から未来まで彼のコアである、
血を分けた我が子の様な「男たちの挽歌」をただの仕事にするわけがないと。
かくして24年の歳月を経て「男たちの挽歌」は甦った。
24年。80年代半ばから2000年代終わりまで、
その間、香港も韓国も、映画も社会も大きく変化しました。


ジョン・ウーが築き上げたはずの香港ノワールは、その後香港映画自体が変容、
ジャッキーもジェット・リーもチョウ・ユンファもハリウッドで活躍する様になり、
「ザ・ミッション 非情の掟」(99)や「インファナル・アフェア」(03)頃から復興、
アンドリュー・ラウ&アラン・マックがその後の燃焼が思わしくなくなると
ジョニー・トーが抜きん出て時代は彼に移っていったと思います。
その間に香港は中国に返還されるという大革命を通過します。

一方、韓国映画は90年代後半から2000年前半に「シュリ」(99)などで躍進し、
日本における韓流ブームが始まるとドラマ・映画ともに海外でのバブルに突入、
昔のさもない映画までガンガン輸出した後、ブームが落着いてくると、
本当に映画作りに貪欲なハングリーな奴らが作り出す"アブナイ"映画が突出し、
ポン・ジュノ、キム・ギドクからナ・ホンジンやヤン・イクチュン等々、
まだまだキリのないグツグツした溶岩の泡が吹き上がっています。

香港映画だってまけてはいないものの、韓国映画のギラギラした空気に
ジョン・ウーがかつての80年代香港のドロドロを見出したのか?
はたまた、男たちの絆を今描くと言えばこれも韓国映画に他ならないと感じたのか。
ジョン・ウー自身がメガホンを撮らなかったのは不思議でならないものの、
韓国でのリメイクを許したことには彼なりに納得行くものがあったのだと思う。

香港と韓国のノワールのそれは渇き方というか湿度が違うと思いますが、
兄弟の絆は韓国の場合はそんな人をそこまで?と思うくらいに強い。
両者が向き合った相互に想い合う関係ではなく、
一方が一方的に強く想うだけで成立することさえある様に思えます。

韓国版「男たちの挽歌」は4人の男たちが中心に回っていく。
まず、武器密輸組織に属するヒョク、ヒョクの弟で警察官のチョル
肉親の絆で結ばれた二人の関係に、ヒョクを兄貴と強く慕うヨンチュンが加わり、
義兄弟と呼ぶべき、血の繋がったものとは異なる絆を生み出す。

そして、彼らをズタズタに引き裂いていくのが、組織の社長の甥のテミン。
いつまでも出世できない彼の心は暗く深く歪み荒み、
ヒョクをヨンチュンを裏切り組織の頭にのし上がっていく。

さらにヒョクとチョルは脱北者という出自を背負っており、
ヒョクは逃げる際にチョルと離れ離れに生き別れとなり、
チョルと母をも苦しめたという悔恨と贖罪の想いを抱き続けている。

ヒョクは罠に嵌り監獄に入るが、チョルはその悪を討つために警察官へ。
ヨンチュンはあくまで堅気ではない立場からヒョクを支援する。
そしてヒョクはシャバに帰ると堅気に戻ろうとするが、
やがてテミンによって張られた抗争の波に巻き込まれ、
チョルをヨンチュンを救うために狼の血を甦らせていく。

戦場からヒョクに逃がされ一人になったヨンチュンは悪態をつきながら、
兄貴を助けるため船をターンさせ、マシンガンを手にテミンに怒りを向ける。
砲撃の中、怯えるチョルに対して叱咤しヒョクの想いを気づかせる。
三人の男たちは実の兄弟の絆を義理の絆を確かに握りしめ、
死ぬときはともに行こうと目で契りを結び、炎の中で舞う…。

香港と韓国の微妙な差異と共通点を融合させ、新たなる挽歌は生まれた。
それはやはりジョン・ウーの手腕に寄るものだと思います。
オリジナルと比べられる宿命からは逃れられない新生「男たちの挽歌」。
しかし、宿命を背負うのもその世界に生きる男たちの美学に他ならない。

観客には男性客があまり見受けらませんでしたが、
やはり男が見る映画であるべきであることには違いない。
そうだ、24年の間に変わったのはもう一つ、日本では男子の草食化だったか。
それが日本での挽歌であり、もうその歌は届くか分からない。
しかしそれでもうたい続ける。それでこそ、挽歌です。

「アンダーカバー」 ~アクションスターを分ける道2011年03月03日 23時19分10秒

シリーズVHS観賞。
前回はチャド・マックィーン主演「ハード・リベンジ」でしたが、
今回はその続編とされる「アンダーカバー」についてです。

原題:MARTIAL LAW 2 "UNDERCOVER"
1991年 アメリカ作品

監督:カート・アンダーソン 
製作:スティーヴ・コーエン 
脚本:リチャード・ブランド
   ジルス・フィッツジェラルド
出演:ジェフ・ウィンコット、ビリー・ドラゴ、シンシア・ラスロック、
   ポール・ヨハンソン、エヴァン・ルーリー、L・チャールズ・テイラー

MARTIAL LAW 2 "UNDERCOVER"
とある様に確かに前作の続編で主人公もショーン・トンプソンですが、
チャド・マックイーンはどこかに行ってしまい、
代わってジェフ・ウィンコットがトンプソン刑事役を演じます。

このジェフ・ウィンコット、実は「ハード・リベンジ」にもちょい役で出演。
とくにその時は名もなき役で注意しませんでしたが、
アンタまあ、こう見えても脱いだら凄いんです。

カンフー、空手、テコンドーにレスリングに通じる、その技と肉体は伊達じゃない!
ロングのブラックローブ(最近じゃマトリックスコートと言う方がわかりやすい)を纏い、
すっくと聳え立つ体躯が闊歩する様は、チャドの300%ほど男子力増加。

キャッチコピーは
スティーブン・セーガル、
ジャン=クロード・ヴァン・ダムを凌ぐ
凄い奴らが現れた!

(豆知識:昔はセガールはセーガルと表記されたことがあります。)

そんな鳴り物入りで日本にも投下された新生ハード・リベンジ。
ナイトドラマ的空気漂う夜の街を映した前作のOPクレジットとは対照的に、
今回のOPクレジットはジェフの肉体演舞から始まる!
道場に掲げられる日本・韓国・アメリカ国旗…。
たぶん、あらゆる格闘技に精通することを示しているのでは。

ロサンゼルス北西署に教官として赴任することになったショーンは、
旧友のトニーと再会するが、後にトニーは車ごと崖から転落死する。
原因は飲酒運転とされたが、禁酒中だったことを知っていたショーンは、
納得できずに独自に調査を開始、車から発見した手がかりから、
トニーが捜査中だったナイトクラブを割り出す。

実はナイトクラブは武器と麻薬の密輸に関わっており限りなくクロだったが、
ショーンはたちまちトラブルに巻き込まれ組織に面が割れてしまう。
上司のクランツ警部には再調査の要請を却下され八方塞りのショーンは、
かつての相棒・ビリーに協力を求め、彼女に潜入捜査を依頼する。

画面奥からこちらへ飛び出す様なカメラワークで撮られた
ジェフ・ウィンコットのアクションはパワフルで悪を挫くポリスに相応しく、
これと比較するとチャド・マックイーンのそれはストリートファイトの毛色が濃い。

ストリートファイトはそれはそれで良さがあるものですが、
ゴキゲンなビートのリズムに乗せて爆発する若者のコンプレックス衝動が
ストリートファイトの本来の魅力を引き出すものではないかと思うので、
前作はやや料理法が合致しなかった様に感じられます。

潜入捜査を行うビリー役は前作に続き、シンシア・ラスロックが続投。
こちらも自慢のマーシャルアーツを引っ下げて期待に違わぬ活躍を見せます。

見事に悪を撃退したショーンとビリーは真の黒幕の下へ向いますが、
二人が踏み込む前に黒幕は自らこめかみに銃口をあて、
銃声とともにエンドクレジット、というなかなか鋭い演出で幕を閉じる。
「ハード・リベンジ」の正直たまったもやもやを見事に粉砕。
明らかに前作とは違う方向で勝負し、格闘をもっと前面にという気概を感じました。

ジェフ・ウィンコット&カート・アンダーソン監督のタッグで作られた本作は、
概ね好評だったのか、この後年に続く作品についても
「アンダーカバー/炎の復讐」(92)、「アンダーカバー/マーシャルコップ」(93)と、
アンダーカバー・シリーズの様に邦題が冠されています。


ジェフは、前作のチャド・マックィーンにはなかったユーモアセンスも垣間見せ、
同じ役を前作よりも見事にかっこよく生まれ変わらせて演じたと思うのですが、
その後もアクションやミステリー、SFにコンスタントに出演したものの、
残念ながら、セガールにもヴァン・ダムにも届かなかった・・・。

あらゆる意味でカリスマを持つアクションスターと言えば、
シュワルツェネッガ―、スタローン、ブルース・ウィリス、
セガール、ヴァンダム、ジェット・リー、ジャッキー、
あるいは、チャック・ノリス、ウェズリー・スナイプス…。
ジェイソン・ステイサムだったりするのかもしれない。

ここにあげた一部のアクションスター以外にも、
多くのスターがいて、それぞれ生傷を作り勲章を刻んでいる。
しかし、ビデオストレートだろうと一時代を作り上げるスターと、
ちょくちょく出てはいるもののあるレベルでうろうろしている俳優と、
何がどう違っているのでしょうか。

アクションに関しては、僕は出演作以外の公私の中のユーモア性や、
良いことでも痛い思い出でも伝説や逸話を持っていることだと思う。
シュワちゃんはコメディの資質もしっかり持ち合わせていたし、
ウィリスは元々コメディアンだったし元嫁でしっかり勲章を作った。
スタローンは彼の人生そのものが喜劇と悲劇に満ちていた。

セガールもヴァンダムも独特のキャラクターが一人歩きして
ファンの間でイメージや妄想がもくもくと膨らんでいく。
チャック・ノリスまで行けば嘘が真にすらなってしまう。

ではストイックに生きている者に太陽は微笑まないのか。
そんなことはない。しかし、真剣一本で伝説になるのは生き方のレベルが違う。
生き方そのものから生まれた武勇伝や都市伝説が語り草にならないといけない。
そこにファンは憧れ、スターそのものを追いかける様になっていく。

良いアクションを見せることはもちろん重要です。
しかし、作品は本来、良い物が見られて当たり前であるはず。
そこから俳優にファンが付き長く慕われるという先に行くには、
やはり俳優本人にプラスアルファの何かが必要なのではないでしょうか。
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