新年度を迎えて2011年04月01日 22時17分14秒

4月1日。新年度の開始。
職場の方も新年度を迎えましたが、この状況を鑑みて
しめやかな雰囲気でご挨拶が行われました。

私事ですが、年末は車が事故にあって落ち着かないまま2011年を迎え、
この新年度は皆様と同じく震災によってさらに落ち着かないものとなり、
なんだか昨年より区切りがあまり見えていない気がします。
もっとも、アイデンティティや生活に影響を及ぼさないはずがない出来事です。


いろいろと思うところもあり、ブログの再開からもそろそろ2週間となり、
ブログを徐々にもとのスタイルへと戻していくことも考えています。
震災の復興の模様もまた伝えていきます。

そのなかでできるだけ元気や勇気のでてくる映画、
これからを考えさせる映画、何かを暗示するような映画、
ときには一気に現実逃避といいますか夢の中へ誘う映画なども、
それなりに考えをもって戻していき、でもほんのちょっぴり違う、
なんていうことになっていくかもしれません。

3月11日に会社で本当に交わした会話で、
「こんな映画ありましたね。」「デイ・アフター・トゥモロー。」
というものがありましたが、あの様な、災害や恐怖を描いた映画も、
これからの自分の見方は変わってくると思います。

今回の東日本大震災も、いずれはそれを描く映画やドラマが、
ある程度の数は製作されていくと思います。

ただ、これだけは言いたい。
少なくとも震災に対しての映画やドラマに対しては、
感動の実話とか美しい逞しい、それだけを描いていたら、
その製作者をそれから後、僕は信頼することはないと思う。


そういう一方で、本日より公開開始となっている
「オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー」が
宮城県内では公開の見通しが立っていないことが残念に思うのであります。
そんな今日の応援歌は、仮面ライダー(スカイライダー)
「はるかなる愛にかけて」を。
http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=24590

戦い続ける人、戦い抜いた人2011年04月02日 22時21分49秒

会社の近くの、ちょっとした名物おばちゃんがいるコンビニが、
この近日で、やっと営業再開していました。
やはり馴染みのお店の再開はほっとします。

まだまだ品揃えは少ないけれども、
とくに甘味ものが並ぶと嬉しくなります。
これからも少し売上に貢献していきましょう。

それにしても、食べ物を買いたくなる頻度が高まっていますが、
よく昔、食欲旺盛な様の年配の人をさして、
「(戦争など)物の無い時代に育ったからなあ」と言っていたのを
真実を言い当てている様に思い出しています。


さて、よくその前の道を通ることの多い銭湯の前に、
ここ最近はお風呂に入る人の行列ができていましたが、
昨日よりぱったりと人がいなくなっていました。

ガスの復旧が進んだために人が少なくなったのかと思いましたが、
よく見ると入り口の前に、「廃業をしました」という張り紙が。
しかも、3月31日付けになっていました。


なんとも不思議な心境になりました。
以前から廃業にすることは決めていたのでしょうか。
その廃業のタイミングとこの震災が重なったのでしょうか。

この毎日、フル回転で操業していたのは最後のひと踏ん張り、
だったとも言うべきものなのでしょうか。

戦い抜いたボクサーの様な、仁王立ちの弁慶の様な、
何か悲しくも、しかし高貴な心に触れた様な気がするのでした。

その張り紙の横に、お客さんのものなのでしょうか、
手書きのメッセージで「ありがとう!!」と添えられています。


なぜか、「帰ってきたウルトラマン」の歌の歌詞
~たたかいすんで 朝が来る~
を思い出したのでした。
http://lyric.kget.jp/lyric/ug/tp/

明日は石巻にある僕の家のお墓に行ってきます。

震災後、石巻を訪ねる2011年04月03日 23時18分57秒

4月3日。

ガソリンがなんとか目処がつき始めたので、
石巻方面にお墓の様子を見に行くことにしました。
母と多賀城の伯母を車に乗せて朝に仙台を発ちました。

生活が安定してきたとはいえ、これから向うところは
報道で知る限り自分達の地域よりも被害を受けているところ。
自分達は明るさを保っているものの、やはり緊張があります。
三陸自動車道に接続する際、多賀城の国道45号を通ります。


先日の訪問では分からなかった、多賀城の、
まだ道路脇に詰まれた瓦礫を目撃しました。
ここに来る前にも、川を渡る時に橋の上から、
波に運ばれてきた船が何隻もひっくり返っている光景を見ています。

三陸自動車道は震災前にはどの人も高速道路の感覚で通過していましたが、
(実際は高速道路ではない。)この日は日曜ということもあり、
ガソリン確保がなんとか安定してきた人達が次々に親戚家族の下へ向う様で、
通常の道路の様に渋滞が生じておりかなり低速での通過になっていました。
その車の列の中には、先に行くほどに自衛隊の車両が目に付くようになります。

今、日本の人々にもっとも求められ、活躍していると言っていい自衛隊。
かつて自衛隊の皆さんに暴言を浴びせた人々へ、どう見ても
その行動をもって一矢を報いるかたちとなったにも関わらず、
どうだこれこそが、などというちっぽけなプライドはとっくに投捨てて、
ただひたすらに人々を助け続けることに専念する姿にただ頭が下がります。
人々の顔が明らかに感謝の目で見ていることがわかります。


石巻河南で三陸道を降りると、一見すると落ち着いている様に見えますが、
よく見ると震災の前よりも道路には土埃が舞い、
田畑は泥を被った様になり、やはり被害の爪あとを感じます。

一言に石巻と言っても、市町村合併で広域になっているので、
石巻のなかでの地域によっての差もありますが、
この数年で開発が進んだ蛇田地区の生協やヨーカドー、
セブンイレブンなどに立ち寄ると、トイレなどに制限があったりするものの、
品揃えと総量に関しては仙台の方より豊富なのではと思えました。

こちらの方面への物資搬送が優先されているということなのか、
このさらに先の海岸地域へも行き渡ることを祈ります。

一方で閉店しているところもまだまだ多く、
かつて、石巻焼きそばを頂いた「廻鮮丸」も休業状態。
この時は石巻焼きそばの幟は見つけることはできませんでした。
少しでも早く、あの町おこしを担うB級グルメが帰って来ることを願います。

住宅の状況は、ライフラインも復旧し始めているものの、
石巻では湿地を埋め立てた地盤のゆるいところもあり、
その上に建っていた家は土台ごと数十センチ下に落ち、
そうなるとパイプは損壊し、ただハコがある様な状態。
そんな状態で住まなくなっている家もあり、
すぐ近くに仮設住宅と見られる建物が建てられていました。


お墓に着いた我々を待ち受けていたのは予想を上回る光景でした。
墓石がずれ、崩れ、捻られ、飛んでいる、あらゆる動きをしている。

墓石を持ち上げようとしたことのある人などそう滅多にいると思えませんが、
あの重い墓石が子供が積み木を散らかした様に散乱していました。
(石によりますが、○○家と書かれる部分の竿石は100kgぐらいあるものも)

石灯籠は砕け、地蔵様は首からポッキリ折れ、
竿石が隣家どころかどこへ飛んでいったか分からないお墓もあり、
通路すらふさがれている様な状態で、お寺も一部が損壊していました。

一時的に寝かされて涅槃仏の様になっている像や、
達磨落しの様な絶妙なバランスでツイストされた墓石には絶句しました。
これではお墓参りを控えてもらう様にお知らせが出るのも無理はありません。

我家のお墓は墓誌がバタンと倒れて花立が飛び、灯籠が砕けました。
墓誌はウンセと元通りに立てるだけで修理費はかかりませんでした。
町内会長をやっていた警察官のお祖父ちゃんのこと、
お墓のなかでもどっしりと構えて「みんな落ち着いて」と、
周りに言っていたのかしらと、少し安堵も感じることができました。

ところで、酷い状況になっている墓石は最近の新しいものが多い様です。
流行のというか好まれてる、黒いピカピカに磨かれた輸入物の石ほど
どこかに飛んでいってしまっている様です。

逆に昔からある、苔が生えて掘った文字も消えかけてくる灰色の石は、
ほとんど崩れもずれることもなく、微動だにせず静かに立ち続けているのです。
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