震災後、野蒜そして東名2011年04月04日 23時26分27秒

4月3日日曜日

東松島市、野蒜(のびる)の近く、東名(とうな)という町があります。
仙石線の野蒜駅の上り側の次が東名駅です。

テレビや新聞、ラジオをこまめにチェックしていましたが、
このあたりの状況が報道されたことは数えるほどで、
地元の方のお話でもほとんど無いと言うことです。
この町も津波が直撃し、壊滅的という言葉すら上回る状況です。

親戚の家がここで被害に遭ったため、
避難所にいることを確かめた上で石巻の後、物資を持って向いました。
三陸道を降り野蒜駅方面に向うと、川原に瓦礫が散乱し、
川の中に車、コンテナ、家だったものが増えてきます。
決してこの光景を忘れてはならないと、手を合わせて記録します。



避難所で親戚のおじさん達と無事会うことができ、当時の話を聞きます。
波に流されたこと、町の状況、本当に九死に一生を得たという経験、
支援物資はあるけれども、津波を被った後でお風呂が自由に入れないこと、
これから仮設住宅を建てようにもその資材がないこと、
十分に建てられるまで1年かかるだろう、ということが生の声で入ってきます。

1年・・・、僕らの1年よりもずっと、それは長いように感じられます。
それでもみんなは力を合わせて立ち上がろうとしています。


家があった場所を見に行くため、東名の町に向いました。
野蒜駅に近づいていくと景色が急変します。
数年前、近辺の民宿に行くときに見た光景も、
津波が過ぎた林や運河はすっかり形が変わっていました。

運河の中に何軒もの家が沈み、木々もあり得ない場所に折り重なっています。
道路はコンクリートもアスファルトも端から削り取られ、一車線が半分しかありません。
瓦礫が囲み砂煙が舞い上がるなか、自衛隊の車が待機するその光景は、
ここは本当に日本なのか、アフガニスタンではないのだろうかとさえ感じます。


野蒜駅は形をとどめていましたが、線路の上を大量の瓦礫が塞いでいます。
しかし、それを撤去すれば通過できるという単純なものではありません。
それは駅から先に行った踏切で思い知らされます。

これは柵が建てられているのではありません。
津波によって線路が枕木から引っぺがされ、縦向きに捻じ曲がっているのです。
これではいくら早く再開して欲しいと言っても見通しが立たないのも当然です。

この付近まで来るともう、家々は骸骨のようになっていました。
土台、基礎部分だけしか残っていない場所も少なくなく、
元の場所に建っている家も一階部分は爪で抉り取られたかの様です。
そもそも、そこに元々あった家なのか流されてきた家なのか、
それすらも判別が困難な場所もあります。



道路は瓦礫が除けられ、車が通過できるようになっているものの、
地面の高さが変わり、満潮時に海水が浸食してくる様です。
このまま進むと車がやがて錆付いて動かなくなるため、
車を降りて割れた瓦やガラス、折れたパイプをかき分けて進みます。

生活を感じさせるなにもかもがボロボロになって散らばっている。
ふと、泥の中にぬいぐるみが目に入りました。大きなキティちゃんでした。
2歳児ぐらいの大きなキティちゃんがうつ伏せになっているので、
起こそうとしましたが顔を見て、そっともとに戻しました。

辿り着いた目的の場所には、何もありませんでした。
家がなくなるということを、本当に跡形もなくなくなるということを、
一体どれほどの人が考えたことがあるでしょうか。

ただただ、言葉がでない。
悲しみが多すぎます。

仙台の自宅への帰路につくと、今度はきちんと建っている建物が、
舗装されている道路の方が夢の様に、現実感がなくなっていました。
そしてその思いはビルが立ち並ぶ中心部に行くと一層強まります。

はたしてどちらが夢なのか現実なのか。
もちろん、どちらも現実なのです。
ニュージーランドで、ハイチで起こったことも、
その起こったときにのほほんとしていた僕のどちらも現実。

何も分かっていなかったのではないか。
罪悪感を抱きながらと再開したにも関わらず、
こうして書くことが、生きていることも罪の様に思えてくる。

帰り着くとその日は泥のように眠りました。
しかしふつふつと沸いてくる想いもあります。

あの光景を目の当たりにすればこちらの不自由などなんぼのものか。
ブロックが崩れたガラスが割れただけのがどうしたとさえ思う。
些細なことで不満を感じるなど馬鹿らしく思えてくる。
希望の想いと憤怒の想いが入り混じって整理がつかない。

生かされて、生きていかねばなりません。
これを記録しなければなりません。
これを忘れてはなりません。
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