震災後、陸前赤井へ2011年04月08日 23時55分28秒

4月7日夜。
ご存知の様にまた、余震が来ました。
皆様ご無事だったでしょうか。

僕の家でも再度の停電が襲い、直ぐに溜めようとした水が赤く濁り、
朝まで落ち着かぬ眠れぬ夜を過ごしました。

多くの人が振り出しに戻ったという状況と気持ちになり、
あれだけの揺れを余震と言われても納得はできないわけです。

先日訪ねた多賀城の方でも再び電気と水道が止まり、
東北歴史博物館の方には3月11日に水に襲われた人達が避難し、
一夜明けた後も、買い物に行列が再度できる様になったとのことでした。

親戚、友達、知人の多くがやはり不安が甦ってきており、
なかには3月11日に受けた被害を上回った人もいます。

天災は忘れた頃にやってくる、油断大敵、などの言葉が頭をよぎる。
僕の家でも汲み置いた水などが無くなっていた頃でした。

約一ヶ月、丁度、今までの蓄えが一段落し、新しい備蓄をしかける頃、
という僕も含めてタイミングの悪い状況だった人も多いと思います。
何が恐ろしいかと言えば、あの震災後さえも油断していたという、
その自分自身の精神が恐ろしいと思いました。

僕に対してはこのブログで久し振りに映画の話など長々としたことに、
"お前はもうそんなことを言ってるのか"との怒号が放たれた様にさえ思った。
地震はいつ起こるのか、もう起こらないのか、実際には分からないのが問題です。
ゴジラの方が目に見える分、まだ怖くないのではないかとさえ思う。


その日は、東松島市の赤井という町(石巻市に隣接する)を、
母が知人を見舞うというので、僕は運転手として同行してきたのでした。

赤井は津波で町が薙ぎ倒されたのとはまた異なる被害を受けています。
三陸自動車道の北部と南部で全く違う印象を受けます。
南部は石巻工業港から注ぐ定川があり、大量の水が溢れました。

民家のほとんどは倒壊を免れて建ってはいるものの、
地震直後にやはり水が一階部分まで浸水してきており、
水が大量の泥とヘドロを町の中、家の中に運んできてしまったのです。

車から降りると、なんとも形容しがたい匂いを感じました。
仙石線の陸前赤井駅の周辺は渇いた泥が土煙をあげ、
町の空気に至るまで土色に染まっている様に見えました。

普段は砂場や遊具があった公園は泥に覆われ、その泥がひび割れ、
干ばつ地帯の映像で見られる様な荒れた地面が広がっています。
道路から剥がされたその泥の層の厚さを見ると驚きます。

家々の前には大量のものが積み上げられています。
よく見るとそれは瓦礫とは違う、各々の家の中にあった家具、
生活やあるいは趣味の道具、教科書や本類などが、泥を被ったものです。

家の中の泥をかきだすために、外に積み上げられているのです。
それが両脇に積み上げられ道路は極端に狭まり、
車のフロントガラス越しならばなおのこと、
渇いて舞った土で視界が曇った様な閉塞感がありました。

自衛隊の皆さんが来て給水をしてくれたり、
大量の泥の撤去をもしてくれています。
一ヶ月近く経ってやっとここまでこれたと言います。
一ヶ月でまだこれなのかとも思えます。


帰りに立ち寄ったマックスバリューは半分以上が開店しており、
明日から再開します!とラーメン屋さんが頑張っていました。
品物は豊富に揃って洋菓子を買っている方もいました。
しかし、その中には泥だらけの人もいます。

ますます自分が申し訳なく思います。
そして最大級の余震が来ることになりました。
赤井の町は大丈夫だったのでしょうか。
ラーメン屋さんは無事に再開できたでしょうか。

あの泥を掃除し尽くしたいと思う。
しかし因果な事に僕の仕事もライフラインと言えばライフラインでもある。
仕事場も倒壊の危険を感じる中でなんとかやっている状況です。
派遣の立場ではあるものの、今離れるわけにも行かない。

仕事は石巻や東松島に比べれば全く大したことのない仙台市中心部で従事する。
(もちろん、生活がガラリと変わる打撃を受けた方もいますが、それでも、です。)
現実感の無い環境の中で仕事をすることの現実は残酷で容赦ない。

だからせめてこれを書いて現地の状況を発信しています。
間違った情報に…ということはないように、見たものを伝える。
そんな思いに挟まれながら、誰もが叫ばずにいられないはずなのです。
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