「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島」 ~成長していく者が作る世界2011年03月07日 23時56分37秒

ナルニアシリーズ第三作目
「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島」についてのこと。


■「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島」公式サイト
 http://movies.foxjapan.com/narnia3/

「ハリー・ポッター」シリーズ、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズ、
その成功で続々と、魔法と剣と冒険のファンタジー映画が製作されました。
「ライラの冒険/黄金の羅針盤」「エラゴン/意志を継ぐ者」等々、
いくつかは初めからシリーズ化を想定されて製作されたものの、
興行面等の諸事情で頓挫し、中途半端に、宙ぶらりんとなっているものも。

「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島」も難産だったようです。
2005年に「第1章ライオンと魔女」から開始された映画シリーズは、
2008年「第2章: カスピアン王子の角笛」で早くも陰ってくる。

ヒットはしたし、別に制作費が回収できなかったわけではないものの、
ディズニーが期待した程の成果はあげられなかった様です。
何億ドルの世界の話だというのに。

ディズニーは予算他の都合ということでシリーズからの撤退を決定。
原作は7巻まであり成功すれば3部作かそれ以上のシリーズになると
期待された「ナルニア」もまたストップしてしまうかに見えました。
ディズニーが放り投げた、という印象を与えたところが大きいのであります。

その後、別の大御所・20世紀フォックスの手にシリーズは渡り、
監督もアンドリュー・アダムソンからマイケル・アプテッドに交代。
朝びらき丸の航海とともにシリーズも新しい世界へ漕ぎ出します。

僕はシリーズがディズニーから離れたことについてはむしろ良かったと思う。
前二作はディズニーに顕著に見られる特徴、戦いの場面でも剣で斬りつけたり
血が噴出す怪我するなどの直接的な表現が寸止めの様なかたちで、
極力回避されていたと思え、やや物の挟まった様な気分があったことも事実。

本作においてもまだ、教育映画然とした節が見られますが、今後は、
20世紀フォックスに移ったことで制約から解き放たれることも期待するのでした。


映画「ナルニア国物語」は少年少女が大人に成長するための
通過儀礼を示す意味が籠められましたが今回はより強調されています。
前二作で活躍した四人兄妹のうち、既に大人に成長したと見なされ
長兄のピーター、長女のスーザンはカメオ的に出演するに留まり、
主役は大人の階段を上りかけている弟妹のルーシーとエドマンドへ。

この二人に加えて、束の間の間世話になっている、
従兄弟のユースチスも巻き込まれる様にナルニアへ。
ユースチスは意地悪でひねくれ者で兄妹を疎ましく思っており、
ナルニアについても人々の話をなかなか信じようとしない、
ポジションは「ハリー・ポッター」でハリーを虐める従兄を思わせます。

しかし、このユースチスもナルニアに必要な人間だというのが面白い。
欲に目がくらんで姿形がとんでもないものになってしまうものの、
それからの改心と活躍ぶりは目覚しいものがあります。

イギリスのお話は悪い奴は徹底的に悪いと誰かが言っていましたが、
徹底的に追い詰められた人間が自分を見つめなおし、
本当にすべきことに目覚めていく様は非常に教訓的です。
(人間の姿に戻る際に、アスランが一喝する様に咆哮します。)
これだけでも、大人へと成長するための世界とするには十分。

ルーシーは憧れの姉・スーザンとは違う、自分自身の生き方を見出す。
助けた少女からは「あなたの様になりたい」と言われますが、
それに対しても同様の考え方を示します。
自分はコピーにはなれない。人はオリジナルにしかなれない。

エドマンドは心の奥に小さな棘の用に長い間引っかかっていた
トラウマとコンプレックスへ完全なる決着をつける。
自らの弱さを認め、相手を認め、自らの力だけではない、
人々の力を背に受けて立つことに気づいていく。

遂に最後の成長の扉を開けたルーシーとエドマンドの二人には、
ナルニアで学ぶことは何も無くなり、静かな別れのときが訪れるばかり。
未熟な者が人々の期待を背負い、人々を救いに導くことになり、
ある程度まで成長してしまったらその前から去っていくというのは、
考えてみれば少し奇妙な話の様な気もしないでもない。

しかし、常に変化の可能性があり成長を促す世界とも言えると思います。
ルーシーとエドマンドが去り、時代は新たな若者へと移っていく。
そうして想いも力も次代へと脈々と受け継がれていく。
朝びらき丸の大人達も彼らの成長をバックアップするなかで、
若者達から影響を受けることになり、彼らもまた変化していく。
ナルニアには常に新しい風が吹き抜けていくということか。

映画としても主役が次々交代していくと、フレッシュさを与えます。
(それゆえ、シリーズの間が空いても俳優の年齢はネックになりにくいかも。)
同じ俳優が続投し続けるのを親心の様に見守り続けるのもまた楽しく、
作品にしっかりと一本の骨を通していくことになりますが、
何人もの俳優によってそれぞれの物語を語ってくれるというのも、
また楽しきことかなと思うのでありました。

世界は繋がっている、ということを静かに示すメッセージも、
心をほんの少し温かな灯火で燃やしてくれます。

「英国王のスピーチ」 ~ 家族でもなく仕事ばかりでもなく2011年03月08日 23時40分34秒

先ごろ、アカデミー賞作品賞、主演男優賞、監督賞、脚本賞を受賞した
映画「英国王のスピーチ」についてのこと。

■「英国王のスピーチ」公式サイト
 http://kingsspeech.gaga.ne.jp/index.html

物語は1925年、大英帝国博覧会閉会式でヨーク公アルバート王子が
父・ジョージ5世の代理で演説を行うところから幕を開ける。
この物語の主人公、アルバート王子は吃音症に悩んでいた。
そしてこの日の演説もまた芳しくはなかった。

群集の見守る中、王子はその第一声から言葉を明瞭にすることができず、
極度の緊張と不安の中、恐怖と残酷なる時間は過ぎていった。
ある年、王子は妻のエリザベスの紹介で言語聴覚士のローグを紹介され、
吃音の治療を受けることになり、彼らの二人三脚が始まる。


自分が話したいことが自らの口から語れないことの苦しみ。
あなたは味わったことがあるだろうか。

アルバート王子、後に即位してジョージ6世となる彼に圧し掛かる重責は、
もちろん我々一般人とは比べ物にならぬものであることは明白ですが、
各々が背負うものの大小はあれど、吃音に苦しむ人は多い。

僕も話をするのは得意な方ではありません。
1対1の会話ならばともかく、大人数になると口数は減っていく。
無理に発言をしようとすると舌が回らなくなることはよくある。

多くの人は、口数が少なかったり大勢の前に話せない人を、
自分の考えを持っていなかったり表わせなかったりしているなどと、
蔑みと放置を持って捉えているかもしれませんが、
悩みを抱える当の本人に言わせれば自らを鼓舞する積極的になる等ということで
どうにかなるものならば太古の昔から吃音が一掃されているだろうと思える。

先天性、後天性、吃音の理由は様々に考えられるけれども、
本人は何故とかどうすれば良いとか、それが分かれば苦労しないと
ときにはヒステリックにもなり、どうすれば良いか分からない感情が
胸の奥から湧き上がり口から出ることもままならず頭を締め付けていく。

吃音は日常的に現れるものばかりではなく、アルバート王子の様に
演説などの極度の緊張を発する大事な場面のみ現れたりします。
僕らとて、いつ何時、言葉が出なくなるかは分からない。


アルバート王子は吃音の克服のため専門家の治療を受けていましたが、
この物語で彼が光明を見出す出会いとなったローグは、
実は専門家ではなかったとわかります。そこが重要だと思う。

ローグの立場はかなり絶妙な位置にあると思います。
警護なり医師なりの仕事で仕切られた立場とは言い切れない関係。
血縁の関係ではないが、家族に限りなく近い関係。
公私の両面でアルバートを支える強力な友人というのが近いでしょうか。

アルバートは戴冠の儀の際にローグを家族関係者の席に座らせる様に命令する。
この頃にはアルバートはローグの独特の訓練方法に信頼を寄せ、
さらに、一度は訪れる危機を乗り越えることにより友情が強固になっている。
不安からローグに傍にいて欲しいのではなく、家族の様な絆を感じているから
家族同然に扱うべきであるという関係に二人は達しているのだと思う。

二人は互いの輝かしいまでの信頼関係により互いを支えあい、
突如として訪れるアルバートの王位継承から第二次世界大戦への突入と、
世界規模に影響する困難な場面を乗り越えていく。
当初は人々に不安を与えるスピーチだったアルバートの声は、
最後には国民に希望を与えるまでの王の声へと到達していく。


今、僕らに希薄なのは、このアルバートとローグの様な関係だと思う。
家族関係、仕事関係、恋人関係などとは異なる微妙な関係。
友情関係というと簡単ですが、友情は実は複雑で単純なものではないと思います。

家族の様であり家族ではなく、互いの分をわきまえる様であって時には越えて、
全ての壁を越えている様でありながら、もともとの関係はなんの繋がりはない。
全く異なる人間がどういう巡り会わせか出会い、互いを必要とする関係になる。

家族だからできないこと、仕事だから言えないことが様々にある。
下手に結びつきが強いとその関係を壊したくない考えが働き何もできない。
そんな場合、元々が別々の場所から発生した別個の人間の関係であるとき、
その人だからこそ言ったり協力したりできることがあると思う。
繋がりが強い様でいて、希薄な面を逆に有利に働かせられるのも友情なのでは。

現在、僕らはかなり小規模な人間関係のなかで日常を過ごし、
家族との関係すら希薄にもなりつつある。
友達はある程度の規模の輪になるとそこからは輪は広がらず、
その外にいるものとの繋がりをもつことには消極的になっていく。
毒のある話ですが友達との関係にも温度差が生じる場合がある。

アルバートとローグの様にお互いを必要とする半身の様な関係は、
現在、僕らに必要なものの一つのなのではないでしょうか。
この映画は突き詰めていけば、人間同士のコミュニケーションにとって
理想的な大事な何かを提示する映画の一つである様に思えてくるのでした。

再開2011年03月21日 12時23分30秒

この度の震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
そして行方のまだ分からない人が一刻も早く見つかること、
離れ離れになっている人達が早く再会できることを願います。

この大震災で多くの方が被災されていますが、
友、親戚、恩人の皆様の無事を聞くたびに安堵しています。
連絡のとれた皆様、本当に無事で良かったです。
ただ、その皆様の友人、親戚の方の安否を考えると手放しに喜ぶことができません。

僕の家も元々は石巻や気仙沼の方なので、まだまだ連絡のつかない方がいます。
ガソリンが手に入れば早くそちらに向って行きたいのです。


あの日、3月11日、僕は仙台市内の職場にいました。
それより数日前にも大きな地震がありましたが別段被害はなかったので、
最初にあの11日の地震が来たときもすぐにおさまるだろうと思っていました。

ところが、引いたと思えば再び襲い来る揺れに、その場の誰もが感じたと思います。
これはただの揺れではないぞ、と。
うちのビルは9階建ぐらいですが、結構年季が入っているので
さすがに崩壊するのではないかという危機感はあるのです。

照明が消えて非常電源に切換わり、電話機や机上の物が落下する中、
このまま終わってしまうのではないか泣き出す人もいました。
しかしそれはまだほんの始まりにすぎませんでした。

やっと落ち着きを取戻し、非常電源で動いているテレビをつけると、
宮城県南部に瓦礫の様な濁流が押寄せる映像が映りました。
そして、本当にただ事ではないとみんなが確信したと思います。


そこから今日までみんなが、生きるために生きてきました。

仙台に住む僕は、家は無事、家族も無事、電気も水道も徐々に復旧しました。
ガスについては、台所はIH、風呂はエコキュートのため不要、無事動いてます。

食糧は、ツルハドラックやみやぎ生協に数回並び、
常々の備蓄も手伝い、隣近所と晩御飯を分け合って助け合ってます。

ガソリンはもう僅かなので職場以外下手に出歩かず安定するまでじっと我慢。

もっか治療中の腎臓病についても一週間の薬は貰えました。

11日からこの現在まで、僕も家族も町内会の仕事を手伝い、
町内の避難所に避難した方々の助けや、給水の手伝いなどをしていました。
それもライフラインの復旧にともなってなんとか落ち着いてきました。
今後も、僕らはできることをやっていかねばなりません。
僕の現状はまだまだ良い方なのですから。


このブログについて。
仙台発信の個人ブログが休止していくなか、僕も継続か否か迷いました。
まだまだ家族の生活の安定を図り、被害の大きいところを訪ねなければならないため
僕が映画を見られる様な気持ちと状態になるのはまだまだ後になり、
それはしばらく遠くに想うことにしますが、今まで得た映画を大事に強く抱きます。

「パピヨン」のスティーブ・マックイーンの最後の台詞
「俺は生きてるぞ!」を今こそ実感を籠め財産と思って唱えています。

その様なものと震災に関しての現在とまたあの時のことをこめて発信すること、
奮起する心と罪悪感の両方を持って映画を愛し、ブログを続けて行きたいと思います。

まだまだありますが、今日はここまでで。
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