音楽のうねりのように2009年03月11日 23時00分33秒

クリント・イーストウッド監督作品最新作
「チェンジリング」についてのこと。


1928年のロサンゼルスで起きた実際の事件の映画化。
電話会社で働くシングルマザーのクリスティンは、
彼女が仕事に行っている間に息子ウォルターが誘拐される。
警察の捜査により、5ヵ月後に息子は戻ってくるが、
それはウォルターとは全く違う別人だった。
「この子は違う」と警察に訴えるも、
あなたが混乱しているだけだ、
5ヵ月間で成長の早い子供の印象が変わったのだ、
などと言い全く取り合わない。
権力の腐敗と戦うグスタヴ牧師が彼女の味方になるも、
警察はクリスティンを精神異常者として、
精神病院に収容してしまうのだった。


前作の「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」のとき、
あまりの完成度の高さに、この2本を遺作にしてしまうのでは?
と嬉しさと不安さを同時に抱いたものですが、
それは全くの杞憂に終わったようでなにより。

「チェンジリング」の後、日本でも次作「グラン・トリノ」が公開。
さらに、間もなくネルソン・マンデラ氏を題材とした
新作に取り掛かり、その後も企画があるとのことで、
78歳のこの偉大なる監督はまだまだ安心なようであります。

それに、健康面にはかなり気を使い、煙草もやらないらしい。
スタローンやハリソンの様に昔のアクションに戻る気もないようで、
怪我や事故の可能性、ガンの兆候も無さそう。


では、クリエイターとしての寿命、才人としてのキレはというと
銘刀の様にどんどん研ぎ澄まされていく次第。
「チェンジリング」「グラン・トリノ」のどちらも、
狭い地域で、偉人たちも登場しない話なので、
映画に限らず、小説、漫画、ゲーム等々でも
マクロに拡がった世界の後はミクロの世界に戻して見たくなるもの、
というある種の定番にはまったかと思いきや。
本当に才ある人が撮ると、ミクロの世界からマクロな世界が拡がる、
そこらの小品とは桁が違うのであります。

アンジェリーナ・ジョリー、マルコヴィッチ他の、
その時代の人々になりきり、街行く人々まで1920年代。
無論、1920年代のアメリカの空気など自分は知り得ませんが、
同時代を描いた他の映画を思い起こすとやはり、
その時代の再現として作ったものという感じは拭えず、
映画だからという了解のもとに成立していたように思えます。

当然、「チェンジリング」だって再現に他ならない。
しかし、スクリーンの向こうに世界の広がりがある。

昔の空気と言えば、冒頭のユニバーサルのロゴが、
正に大昔の当時のユニバーサルのロゴで感動します。
今の地球の周りにコロナが出現するものではなく、
モノクロで、地球の周りをネオンのように
キラキラと文字が回るちょっとチャチなロゴ。

何しろ、スティーブン・ソダーバーグ監督、ジョージ・クルーニー主演で、
"古きよき時代の映画の復活"と謳った「さらば、ベルリン」で、
ワーナーのロゴが現代のものを使用したことが私は不満だったのです。

「さらば、ベルリン」のワーナーのロゴは、
通常の楯の<WB>マークのモノクロバージョン。
近年のワーナーはそれぞれの作品ごとに、
その作品のイメージで飾ったロゴを作成していますが、
(そうし始めたのはキアヌ・リーブス主演のSF
「コンスタンティン」の頃の各作品だったと記憶しています。)
「さらば、ベルリン」は昔の判子を押したような
地味なロゴに絶対にすべきだった!


話が大きく逸れたので戻します。
とにかくそこまでイーストウッドは時代の空気に拘っています。

この作品の鑑賞前に、と言うよりも鑑賞する日の午前中に
イーストウッド監督作品の「真夜中のサバナ」を鑑賞したのですが、
(これもイーストウッドは出演しない作品。)
その時感じたのはなんだか音楽を聴いているような映画だという感覚。

「チェンジリング」のアメリカの評では
「まるで小説のページを捲るような心地よさ」とあったそうですが、
そういうならば私は音楽を聴いているような心地よさと表現したい。

心地いい音楽を聴いているようなときは、
自分の感性に合う音楽を聞いているとき、
時間があっという間に過ぎるにも関わらず、
自分の中に血肉として曲も歌詞も染み渡ること。
何より疲れない。

イーストウッドはジャズに通じて音楽も自分で奏でられます。
その音楽は彼の監督作よりも他人の監督作に提供した映画
「さよなら。いつかわかること」の方がよりわかる気がします。
初期の頃はまた別として、最近の直感的スタイルは、
彼の持つ音楽感覚とも近づいているように思えます。
それが早撮りや俳優の演技の判断の早さといった直感力や、
即興なども取り込む柔軟さの要因の一つではないでしょうか。

熱く燃える闘志とは程遠いやつれたクリスティンの
ただ一つの原動力となる母親としての愛、
権力の腐敗と戦う牧師と裁判所たち、
「カッコーの巣の上で」より病的な精神病院の風景、
そして姿を現す陰惨な犯行、殺人鬼とその被害者たち。
上映時間は142分。この手の話としては120分でも長い。
なのに暗く想い話であるものの、疲れずに鑑賞できてしまう。
それでいて、残るものが果てしなく深い。
そこが音楽的だと思うのです。

生死不明の息子を生涯探し続けるクリスティンのラストについて、
これもまた希望か絶望かの論議がありますが、
実話に沿ったとは言え、私は希望を与えたものだと思います。
はっきりとしない限りその事件から解放されないことに
残酷さを感じる人もいるでしょうが、
では息子が死んだとはっきり分かり、
生涯悲しみに打ちひしがれることもまた残酷ではないか。

息子が生きている何%かの可能性を見出すことができた
彼女の目には光が宿り唇に強さが滲んでいます。
それはその人の心の強さが前提となりますが、
はっきりと結論が出されないならば、それが叶う希望はある。

アンジェリーナ・ジョリーの強さは心の強さ。
そう再認識もさせられます。
でなければアクションも魂の籠った熱演にはなることができない。
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