受け継ぐことの・・・ 「借りぐらしのアリエッティ」2010年10月31日 23時09分14秒

スタジオジブリ製作の映画「借りぐらしのアリエッティ」が、
映画館のスケジュールに終了マークが点灯したため、
やっとこさ観に行ってきました。
ここ数年、ジブリ作品は終了間際と決めています。

僕の友人などは本作を指してジブリ版の
「ドンジャラ村のホイ君」などと言ったわけですが。

実は今回の作品が宮崎駿監督作品ではないことを、
作品の上映が始まるまで全く気づいていませんでした。
劇場の椅子で画面を眺めていて「ああ!」と思った次第。
その点では「ゲド戦記」などと同じだったわけで。
「アリエッティ」がそれほど評価は高くないとかヒットしていない、
などと聞いていたのはそのためもあってか。
ヒットしていないは違うだろう。興収50億は挙げているのに。
しかしなんとなくそう言いたくなる気持ちも分からないではありません。
この作品、しっかりと宮崎アニメ・ジブリアニメを踏襲しており、
悪い作品ではもちろんありませんが、
上映時間は短い上にストーリー上の起伏も控えめなのです。

緑豊かな自然に囲まれた古い洋風の家に少年がやってくる。
そこには少年の祖母と家政婦だけがおり、
心臓病の手術を控えた少年は静養のためにきたのだった。
しかし、その家には昔から小さな住人が住んでいた。
人間の掌に乗るような小人とその家族。
彼らは人間のものを気づかれないように少しづつ拝借し、
人知れず生きている者たち。小人の少女は言った。
自分達は「借りぐらし」だと。
少年は彼女・アリエッティ達と仲良くなろうとするが、
それが別れの扉を開くことになるのだった。

借りぐらし達はその数が昔に比べてかなり減っているという。
カエルに食べられた者の話も出てきますが。
人間の文明の発展の影響を受けていることは用意に想像できます。
人間の台所から角砂糖を1個頂いたりティッシュを1枚頂いたり、
(借りぐらし達にとってはその量で数ヶ月十分暮らせる)
「狩る」量は自分達に必要なものだけにしている。
それらの描写からは"豊かさ"や"文明"へ精神的警告は感じられる。
ただ、感じられるに留まり、明確なメッセージは発せられない。

活発な少女アリエッティを追いかける少年・翔という図式は
概ねのジブリアニメの王道を踏襲しているものの、
小人と人間の二人ゆえに離別の時を迎えるのは明白だ。
「ポニョ」はその世界観故に力技で結びつけたわけですが、
アリエッティはファンタジックでありながら、
そういうところはリアリティを主張してしまう。

繰り返しますが、面白い点も多い。
人間にとってみれば小さな道具も、借りぐらしの目線で見れば、
マチ針が剣になり、テープが壁を登るためのマジックハンドになりと、
「おお、そういう使い方ができるのか」と新鮮な驚きと楽しみがあり、
視点をずらしたイマジネーションが広がっていきます。

また、ストーリーでは少年の祖父が必ずいると信じた
「借りぐらし」のために作った人形サイズのアンティーク調の家を、
翔が受け継ぎそれがハーブの香りを残して戻るのには目が潤む。
その感情を煽りたてることを遠慮することなくもっと、
ダイナミックに描けば短い中で濃縮された作品になったかもしれません。

しっとりとした染み入る話を描くのにアニメーションは難しい。
それをやるにはTVシリーズほどの長さは必要だと思う。
劇場用サイズの短い時間で達成するには
活劇にしろ感情にしろ洪水の如き力がいるのではないでしょうか。

米林宏昌監督のこれらの描写はまるで宮崎監督作品を見ているように、
源流を確かに受け継いでいるものの、何か師の仕事に忠実に、
師の脚本を尊重するあまりに、他の同様な脚本と監督の関係の例でも
しばしばおこるそつのない仕事の物足りなさもまた感じてしまうのです。
呪縛されたならば、次回は解き放たれたものを見たい。

まあ、単純に「海がきこえる」「耳をすませば」「猫の恩返し」ほどに、
何か一つたまらなく好きな場面が無かったのでもありますが。
それぞれの作品のどこにぐっと来ているかは秘密。
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