アレンジと埋没2008年12月26日 23時30分41秒

1951年の「地球の静止する日」のリメイク、キアヌ・リーブス主演
「地球が静止する日」についてのこと。
また、我が心のジェニファー・コネリーも共演。

なお、原作小説は同一のものでありますが、
邦題は「地球の」と「地球が」とで微妙に異なっている点に注意です。
なんだその「遊星よりの物体X」と「遊星からの物体X」みたいな違いは。


ある日、突然、地球外より巨大な謎の球体が飛来した。
中から現れたのは人間と全く同じ姿をした宇宙からの使者・クラトゥ。
彼の役割はある組織からのメッセンジャー。
その宇宙からのメッセージとは
「人類が滅亡すれば地球は生き残れる」という衝撃のものであった。
彼に同行する巨大ロボットはあらゆるエネルギーを
停止する能力を持ち、地球の全ての兵器は通用しない。
抵抗する術のない人類に残された選択は、彼を説得することだった。


今回の監督はスコット・デリクソン。
作品がパッと思い浮かばなかったところ、
「エミリー・ローズ」の監督と聞いて、ああ!と思った次第。
1995年デビューの若い監督でホラー映画を数本手掛けています。

佳作の監督が大作メジャーに抜擢されるには
定番作品になりやすいところに監督の個性を注入する目的や、
失敗した時に簡単にクビにできるように等、様々な事情がありますが、
ジャンル違いの監督の起用という点では、
オリジナル版のロバート・ワイズも同様で、
1951年以前にはホラーやサスペンスが主な監督作品。
そして以降には、「ウェストサイド物語」「サウンド・オブ・ミュージック」
等を手掛けて、またSFでは「アンドロメダ・・・」「スタートレック」を
手掛けることとなる多岐に渡る分野で才能を発揮。
(ロバート・ワイズは監督デビュー前に「市民ケーン」の編集も担当)

キアヌ・リーブスはオリジナル版のクラトゥとはイメージが違いますが、
リメイク版のクラトゥはより冷たい印象の役になっているため、
これならばキアヌでも納得はできます。

オリジナル版では人間に対して友好的であったクラトゥが
人類に対して冷たく厳しい役になった理由としては、
オリジナル版が作られた約60年前よりも、
現代においては地球人類への警告メッセージが、
より厳しいものとならざるを得ないことが挙げられるでしょう。
スティーブン・キング原作の「ミスト」に対するある批評家の評ですが、
その作品のラストで拳銃自殺を図る親子を、
「ゾンビ」で拳銃自殺を思い止まり僅かな希望に賭けるラストと比べ、
現代社会では希望を提示するラストを描くことはできない、
と評した言葉が思い出されました。

あるいは、これは飛躍しすぎた推測ですが、いきなりやって来て、
この人間を地球に対する害悪と決め付ける巨大な力は、
他国に強硬に介入していくアメリカそのもののようにも思えます。
オリジナル版では、米ソの冷戦がテーマとして組み込まれましたが、
現在ではアメリカが単独で警告される立場になっているのでは。
今回は環境問題も組み込まれており、
この点でも現実にはアメリカの消極的姿勢があります。

しかし、これらの現代アレンジは当然に行われるであろうことながら、
既存の作品群でも問題として提示されていることでありますので、
オリジナル版の先見の明と、友好的な雰囲気ゆえに生み出された
他のSF映画に類を見ない温かいファンタジックな雰囲気は失われ、
どうもやはりその他大勢の中に埋れてしまった感は否めません。


蛇足になりますが、キアヌ・リーブスが
「カウボーイ・ビバップ」実写版の主人公・スパイク役に決定したとか。
これでジェットがローレンス・フィッシュバーンだったら大ウケですが。
元々アメリカンニューシネマを意識している作品なのでこれは期待。

信頼は真実を見出せるか2008年12月26日 23時58分16秒

あるゲーム中の言葉
「・・・心得。何ものにも縛られることなかれ。無論、この心得にもである」

NHKドラマ版の「陰陽師」の中では
・・・言葉は「呪(シュ)」である。発した瞬間言葉の意味に縛られ、
物はその言葉から離れることはできない。
というようなくだりがあります。

思い込み、想像力、固定観念、ときには強い信頼が、
真実を見えなくすることがあります。


ブライアン・デ・パルマ監督最新作
「リダクテッド/真実の価値」についてのこと。

2006年に実際に起きた、イラク駐留の米兵が起こした
少女暴行事件の前後を題材にした、
というよりもその前後を推測して作り上げたフィクション。
毎日極度の緊張を強いられている検問所の駐留兵達。
そんな中、仲間が爆弾によって死亡する事件が起きる。
徐々に善悪の判断基準を失っていく彼らは、
毎日検問所を通行する15歳の少女が爆弾をしかけたと疑いをかけ、
家を強制捜索し、少女達に暴行を加えて殺害する。
リダクテッドとは「編集済み」の意。


本作が告発するのは勿論、米兵達の暴走のこともありますが、
それを取り巻く情報の扱われ方にあります。
しかも、ただ物語を語ることで説明するのではなく、
流れる画の中に違和感を感じさせており、
我々はその違和感を感じて疑問を見出すことになります。

リダクテッドという題が語るように、この作品には
あの手この手の加工映像が登場します。
兵士の一人が記録するハンディカメラの映像、
検問所内の監視カメラの映像、
さらにウェブ上にアップされた動画など。
無論、映画そのものもフィクションであり加工されたものです。

一見、真実を捉えたような映像であっても、
現実の中から切り取られたものである以上、
それは真実とイコールとは限りません。
名も顔も知らぬ人物が提示した文章、画像の信憑性やいかに。
それを言ってしまうと、新聞やテレビといった報道資料の
全てに疑いを持つこととなりますが、それは妄想ではなく、
実際に好ましくない事実を隠された報道があるからこそ、
このような告発の映画は生まれることとなります。

その加工思考は、精神異常で「あれば」処分を一考するなどの、
マイナスを都合よい言い分けとして使い分けることもできます。
エンドクレジット前に挿入される、犠牲になった民間人の写真の数々、
その中に俳優が演じた少女の惨殺体の写真が挿入される時、
それもまた真実という思い込みの危険性を警告します。
真実を見つけるためには、感情の信用では危険であること。
それがこの映画のメッセージと思います。


特にYouTube動画(もちろんフェイク)の胡散臭さは際立ちます。
ブロガーである自分が言うのもなんですが、
WEB上の情報の信頼性のレベルはいかほどのものか。
例えばこのブログにしろ、正直に書くか嘘を書くか、
あるいは真実に基づく誇張で彩るか極端に情報を削ぎ落とすか。
何かの目的があるのかただの暇つぶしなのか。
結局のところその真意は私本人しかわかりません。

真意に近づくにはその情報源である人に会い、
どんな人間かを目の当たりにして、
ようやく見えてくるようなものだと思います。
もっとも現代ではその人を理解することに不器用なのですが。
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