完璧な映画2008年10月24日 20時27分22秒

滝田洋二郎監督・本木雅弘主演、
先日、モントリオール国際映画祭グランプリを受賞した
映画「おくりびと」についてのこと。

<物語>
念願かなってオーケストラのチェロ奏者となったのも束の間、
客不足で楽団が解散となって失業してしまった大悟。
諦めて故郷の山形へ妻・美香とともに帰り、職探しをする。
「旅のお手伝い」という求人広告を見て会社を訪問したが、
実は広告は誤植で正しくは「旅立ちのお手伝い」。
その仕事は葬式で遺体を棺に納める「納棺師」だった。
とりあえずやってみてといわれるまま納棺師見習いとなる大悟。
周囲には言い出せず冠婚葬祭関係と知らせこそこそと働きだすが、
続けるうちに様々な人々の旅立ちに立会い、
彼にとっての天職となっていくのだった。


納棺師。その職業を知ったのはごく最近、
お祖父ちゃんの葬式での納棺の儀のときでした。
お祖父ちゃんの裸を見せることなく、被せられた衣服の下で、
白装束へと着替えさせ、身体を拭き、化粧をする儀式です。
その時は若い女性の納棺師の人だったのですが、
その所作の一手一手に無駄がなく、衣の音だけが響き、
神々しい神聖なオーラが空間に満ちており、
そのとき、これはすごい仕事だと感動してしまいました。

そのため、劇中で描かれる納棺の儀が登場するたび、
思い起こされることもあり、もちろん脚本と演技の力もあり、
涙があふれるばかりでバスタオル1枚を
ぐしゃぐしゃにする量を流したと思います。

そう、脚本が驚異的なまでに素晴らしい。
無駄な場面が一分一秒たりともないと言っても過言ではないでしょう。
もちろん、ピンクから始まり人情喜劇から時代劇も駆け抜けた
滝田洋二郎監督なので笑いもこぼれる場面もあります。
しかし、単なる一過性のくすぐり一発ギャグで終わるのではなく、
そこに職業差別・偏見を指摘したり、嘔吐するような大変な場もある
という美しいばかりではないことをきちんと折りまぜ、
そして、後から効いて来る何重もの伏線になっていきます。

初めての納棺の場が孤独死の老女の腐乱死体であること、
帰宅したところで妻の用意した鶏肉で思い出し嘔吐すること、
そこから衝動的に妻の身体を求めるという行為も、
生きているということの実感と感謝を改めて自覚するという
至極当然の流れで、これが後に始めての子を宿すこととなり、
その子に、妻や行方不明の父のドラマが重なりと全てが連続します。

この映画こそがプロの仕事が生み出す深い笑いであり、
「超ウケる」などで済むような笑いとも言えない
素人の芸のようなものとは全く次元が違います。

「文字が無かった頃、人は自分の思いに似た石を相手に贈った」
行方不明の父が幼い頃に贈った石が出てきたので
大悟が何気なく河原で美香に話す思い出話。
やがて物語のクライマックス、遺体として再会した父を納棺する大悟。
父の硬く握り締められた掌をこじ開けると、石がこぼれ落ちた!
しかし、それで終わりません。
納棺が終わり、その父が握り締めた石を差し出す美香。
その石を大悟がそっと美香のお腹へ差し出す。
生まれる子へと贈る、祖父から父へ、父から子へと贈る思いの石。
旅立つ命から今を生きる命へ、今を生きる命から生まれ来る命へ。
思いは受け継がれ過去から未来へ託されていく。

ジョージ・クルーニー主演映画「フィクサー」に対して
「完璧な映画だ」という讃美がありましたが、
私はこの「おくりびと」こそが完璧な映画だと思います。
ただの陰日向に咲く人々へのささやかな賛歌でもなく、
ただの涙誘うダメ男一念発起人生再生感動映画でもない。
一切の無駄がないその様はまさに納棺師の仕事の様に。
この映画から何も感じない人はビョウキじゃないだろうか、
それくらい思ったとしても言いすぎではないと思います。

本木雅弘が完璧にマスターしたという納棺師の技、チェロの演奏。
山崎努の軽妙なユーモアと含蓄。笹野高史の年輪。
遺族の人々にも滲み出るドラマが窺えます。
美香を演じる広末涼子もキャリア史上最高に良い。
「秘密」の頃はどうなることかと思いましたが、今ではご贔屓。
やはりこの土佐の田舎娘は都会的な役は似合わない。
地方の田舎の土臭さこそが似合います。
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