13人の人生2008年10月08日 23時54分22秒

ニキータ・ミハルコフ監督の「12人の怒れる男」についてのこと。

<物語>
舞台はロシアのどこか。
養父をナイフで刺殺したチェチェン人少年の裁判。
評決は12人の陪審員の審議に委ねられる。
陪審員達はそれぞれに審議後の個人的スケジュールもあり、
目撃証言、物証を信頼し有罪多数で即決との見方をしていた。
しかし、審議開始後の挙手の結果は有罪11対無罪1。
当然のことながら、陪審員の審議は
全員一致になるまで続けなければならない。
議論する中で、各々の出自や経歴、思想信条が浮き彫りになり、
心を揺さぶられ無罪が1人、また1人と増えていくのだった。


ロシア映画は旧ソ連時代から明部と暗部の対比が強く強調され、
環境の問題でしょうが日光の当たり具合も、
日本の冬のキンと張り詰めた緊張感が漂い、
これでミステリーを作ったら面白いだろうなと思っていましたが、
意外とないもので、私は今回が初ロシアンミステリーです。

「12人の怒れる男」という邦題に1957年にアメリカで公開された、
ヘンリー・フォンダ主演、シドニー・ルメット監督の
同名の作品(正確にはルメット版は「12人」ではなく「十二人」)
が頭に浮ぶことは映画ファンとしては常識であり、
無論、今回の作品はシドニー・ルメット版をベースにして、
舞台をロシアに、時代を現代に移したもの。

リメイク、の定義には各々の見解の差異があれど、
ミハルコフは「ニューバージョン」と称しています。
なお、ミハルコフ版の原題は「12」だけ。
また、ルメット版も起源はテレビドラマにあり
その意味ではそれもリメイクとも言えます。

それはさておき、ルメット版の96分に対して
ミハルコフ版は160分という大幅な尺の追加となっています。
ルメット版の無罪1から徐々に人数が増える流れ、
特に一人が強硬に有罪を主張すること、
最初はあかの他人だった12人が議論するうちに、
互いの人間を知るようになり徐々に化学反応が起こる、
という構成を踏襲しつつも、
特に少年の裁判以前の日々や、戦争の記憶等が
重要なキーワードとして加えられ、より深い思考を促し、
また、ルメット版が暑い日の狭い小部屋だったのに対し、
ミハルコフ版は凍える冬の寒々とした体育館が舞台です。

広くなった舞台を有効に使い、犯行現場の再現や、
チェチェンのナイフを使用したアクション等を交え、
さらにチェチェン戦争の傷跡や人種差別も覗かせ、
議論はよりダイナミックに繰り広げられていきます。

この映画の決着がルメット版と異なるのは、
裁判終了後を見据えているということ。
作品においては陰謀説を加えていますが、
実際の裁判においても陪審員は有罪無罪のみを追いがちでも、
当事者の人生に与える影響は心に留め置くべきでしょう。
その一石を投じる意見を述べる陪審員をミハルコフ自身が
演じていることからも重要なメッセージであることは明らかでしょう。

日本においても陪審員制度の導入は近づいていますが、
その意識レベルはどれだけのものかの懸念はあります。
法律の知識はともかく一人の人間の人生を左右する責任の重さ。
「話し合いもせずに簡単に決めていいのか?」
という素朴な疑問からこの作品は始まります。
その意識は日本人にはどれだけのものがあるのか。

また、多人数の中でたった一人異なる意見を述べるという、
ある意味での勇気ある行動がごく一般の日本人にあるか。
ロシアにしろアメリカにしろ多民族国家という環境は、
それぞれが主張しなければならないという
自発的意識におかれるため時には議論は活発になるのだと思います。
なあなあが心地よいこの国では果たして。

ルメット版を越えた、というおすぎのコメントは
多少大袈裟ないつものキャッチとしても、
ミハルコフ特有の色を出した「12人の怒れる男」として
普通のリメイクがオリジナルを越えられないところで、
少なくとも同レベルに達していると思います。
独自の世界を作ることでオリジナルと同次元で評価されたのは、
他には「荒野の用心棒」等、稀なことかもしれません。

廷吏役のアレクサンドル・アダバジャンが
金田一シリーズの加藤武のようなユーモアを見せています。


Loading