心を解く鍵 ~ 扉をたたく人 ― 2009年08月20日 23時54分09秒
第82回米アカデミー賞主演男優賞ノミネート作品
「扉をたたく人」についてのこと。
ブラッド・ピッド!ショーン・ペン!
ミッキー・ローク!フランク・ランジェラ!
そして、リチャード・ジェンキンス。
オスカーにノミネートされなければ
知らずに通り過ぎた名前に違いありません。
(その知名度は日本ではあまりに低いし、
日本におけるジェンキンス姓では
もっと別の人物が頭に浮ぶひともいるはず。)
リチャード・ジェンキンス演じる主人公・ウォルターは
妻に先立たれた孤独な初老の大学教授。
人は悪くないがどちらかというと内向的で、
夜に一人で遊びに行くような活発性はありません。
この大学教授が学業の関係から、借りっ放しにしたまま
長らく帰宅していないNYのアパートを久しぶりに訪れると、
見知らぬカップル、タレクとゼイナブが生活していた。
友人から空家だと聞いて生活していた彼らは家を出るが、
教授は放っておけなくなりしばらくの同居を提案します。
ぎこちなく過ごしていた彼らは、タレクが好んでいた
アフリカ式ドラム"ジャンベ"の演奏を通じて、心を通わせていく。
しかし穏やかな日々も束の間、些細なきっかけから、
タレクは不法移民として拘束されてしまいます。
かつて、私が義務教育中にはアメリカ・NYのことを、
「人種の坩堝」と習い、黒人差別などの歴史は学んでいたものの、
その他の白人達についての差別や偏見などは、
当時はあまり考えてはおりませんでした。
そして現在。この映画は9・11以降、移民や特定民族に対して
心の扉を閉ざしてしまったアメリカ社会を描くといいます。
「坩堝」とは異なる物質を高熱によって溶解させ、
一体とさせるための耐熱性の容器のこと。
つまり、かつてのアメリカが持っていたイメージは、
様々な人種が人種間の壁を越えて一体となって生活する、
というものだったと思われます。
しかし、現在では坩堝に入れられた人種は融合することなく、
熱されることもなく、ただ同じ場に別の存在としている。
共通言語も覚えようとしない人も増えているそうです。
言語は壁を越えることを困難にしますが、
音楽はときに軽々と境界を越えていきます。
ジャンベのリズムがウォルターとタレクを結び付けていく。
アフリカのリズムは人間の原始の鼓動を呼び起すといいます。
それはウォルターの心の扉をたたき、揺さぶっていきます。
後半はもう、学業はどうしたのか?というほどに。
この映画では、人々の色々な距離が見えます。
ウォルターとタレクは音楽によって親子や親友のように結びつく。
対して、タレクの恋人のゼイナブとウォルターはぎこちない。
ウォルターはタレクの母親に淡い恋を抱き、
オペラ座の怪人の舞台鑑賞がひとときの想い出となる。
ゼイナブが手作り手芸品を売る露店市の面々、
自分の家族にも強制送還者がいるというタレクの弁護士。
そして、全く感情を凍結させてしまった収容所の係員・・・・。
かつては楽しく笑いあえたかもしれない人たちは、
今の時代、お互いを警戒しあい、徐々に内に籠って行く。
しかし、どんなにギクシャクした関係であれ、
心の扉を閉ざすのは、相手ではなく自分から鍵を閉めるもの。
相手が苦手な人間なのではなく、自分がそう思い込んでいるもの。
この話は9・11以後のアメリカに限定されることではなく、
日本を含めて、世界のあらゆる場所で
普遍的に考えられることではないでしょうか。
もし、人間関係に歪さを感じているとき、
勇気を出して扉をノックしてみてはどうか。
ウォルター教授も、初めはどうしようかと躊躇いながらも、
タレク達に手を差し伸べ、ジェンベを叩き、少しづつ解放される。
日頃、生徒に授業を述べる指導的立場でありながら、
その中身は非常に臆病で内省的で、またそんな自分を恥じていた。
でも、外側からの友に答えて、内側から自分の扉を開けたのです。
蛇足ですが、弁護士が事務所から帰ろうとするとき、
「どちらへ?」という問いに「クィーンズです」と答えます。
(やや記憶は曖昧ですが)
"クィーンズ"といえば、「アグリー・ベティ」の中で、
主人公・ベティとその家族が住む移民が多い地区で、
雑多なコミュニティにより裕福とは言い難いところ。
出版社のセレブ社員同士が、「クィーンズはどうだった?」と
聞けば「人間の住むところじゃなかったわ!」と会話している。
つまりは、上流層からはそう見られている地区ということ。
この映画はそんな偏見の視点から修正していき、
問題と無関係でいられる人間などこの世にはいないのだと
厳しくも温かな眼差しで見つめています。
「扉をたたく人」についてのこと。
ブラッド・ピッド!ショーン・ペン!
ミッキー・ローク!フランク・ランジェラ!
そして、リチャード・ジェンキンス。
オスカーにノミネートされなければ
知らずに通り過ぎた名前に違いありません。
(その知名度は日本ではあまりに低いし、
日本におけるジェンキンス姓では
もっと別の人物が頭に浮ぶひともいるはず。)
リチャード・ジェンキンス演じる主人公・ウォルターは
妻に先立たれた孤独な初老の大学教授。
人は悪くないがどちらかというと内向的で、
夜に一人で遊びに行くような活発性はありません。
この大学教授が学業の関係から、借りっ放しにしたまま
長らく帰宅していないNYのアパートを久しぶりに訪れると、
見知らぬカップル、タレクとゼイナブが生活していた。
友人から空家だと聞いて生活していた彼らは家を出るが、
教授は放っておけなくなりしばらくの同居を提案します。
ぎこちなく過ごしていた彼らは、タレクが好んでいた
アフリカ式ドラム"ジャンベ"の演奏を通じて、心を通わせていく。
しかし穏やかな日々も束の間、些細なきっかけから、
タレクは不法移民として拘束されてしまいます。
かつて、私が義務教育中にはアメリカ・NYのことを、
「人種の坩堝」と習い、黒人差別などの歴史は学んでいたものの、
その他の白人達についての差別や偏見などは、
当時はあまり考えてはおりませんでした。
そして現在。この映画は9・11以降、移民や特定民族に対して
心の扉を閉ざしてしまったアメリカ社会を描くといいます。
「坩堝」とは異なる物質を高熱によって溶解させ、
一体とさせるための耐熱性の容器のこと。
つまり、かつてのアメリカが持っていたイメージは、
様々な人種が人種間の壁を越えて一体となって生活する、
というものだったと思われます。
しかし、現在では坩堝に入れられた人種は融合することなく、
熱されることもなく、ただ同じ場に別の存在としている。
共通言語も覚えようとしない人も増えているそうです。
言語は壁を越えることを困難にしますが、
音楽はときに軽々と境界を越えていきます。
ジャンベのリズムがウォルターとタレクを結び付けていく。
アフリカのリズムは人間の原始の鼓動を呼び起すといいます。
それはウォルターの心の扉をたたき、揺さぶっていきます。
後半はもう、学業はどうしたのか?というほどに。
この映画では、人々の色々な距離が見えます。
ウォルターとタレクは音楽によって親子や親友のように結びつく。
対して、タレクの恋人のゼイナブとウォルターはぎこちない。
ウォルターはタレクの母親に淡い恋を抱き、
オペラ座の怪人の舞台鑑賞がひとときの想い出となる。
ゼイナブが手作り手芸品を売る露店市の面々、
自分の家族にも強制送還者がいるというタレクの弁護士。
そして、全く感情を凍結させてしまった収容所の係員・・・・。
かつては楽しく笑いあえたかもしれない人たちは、
今の時代、お互いを警戒しあい、徐々に内に籠って行く。
しかし、どんなにギクシャクした関係であれ、
心の扉を閉ざすのは、相手ではなく自分から鍵を閉めるもの。
相手が苦手な人間なのではなく、自分がそう思い込んでいるもの。
この話は9・11以後のアメリカに限定されることではなく、
日本を含めて、世界のあらゆる場所で
普遍的に考えられることではないでしょうか。
もし、人間関係に歪さを感じているとき、
勇気を出して扉をノックしてみてはどうか。
ウォルター教授も、初めはどうしようかと躊躇いながらも、
タレク達に手を差し伸べ、ジェンベを叩き、少しづつ解放される。
日頃、生徒に授業を述べる指導的立場でありながら、
その中身は非常に臆病で内省的で、またそんな自分を恥じていた。
でも、外側からの友に答えて、内側から自分の扉を開けたのです。
蛇足ですが、弁護士が事務所から帰ろうとするとき、
「どちらへ?」という問いに「クィーンズです」と答えます。
(やや記憶は曖昧ですが)
"クィーンズ"といえば、「アグリー・ベティ」の中で、
主人公・ベティとその家族が住む移民が多い地区で、
雑多なコミュニティにより裕福とは言い難いところ。
出版社のセレブ社員同士が、「クィーンズはどうだった?」と
聞けば「人間の住むところじゃなかったわ!」と会話している。
つまりは、上流層からはそう見られている地区ということ。
この映画はそんな偏見の視点から修正していき、
問題と無関係でいられる人間などこの世にはいないのだと
厳しくも温かな眼差しで見つめています。

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