ひとつになって生きている ~ 夏時間の庭2009年08月10日 23時06分18秒

チネ・ラヴィータの新規オープンの第一回上映作品
「夏時間の庭」についてのこと。


緑に囲まれた歴史を感じさせる一件家。
そこに老婦人が家政婦を雇って一人で暮らしている。
2人の息子と1人の娘たちはそれぞれに家庭と仕事を持ち、
皆離れたところで各々の生活を送っている。
老婦人の誕生日に集まった息子達が和やかに食事をしている。
大叔父のアトリエだったこの家には美術館級の品が多く、
婦人と家の気品の良さを物語っている。
しかし、老婦人は自分の死期が近いことを悟っている。
そして、自分が死んだ後は、子供達がこの家と美術品を
管理していくことも難しいことを予見し、
美術館への寄贈と鑑定を行い、子供達に手放すように話す。

-----------------------------------------------------

木々の緑の隙間から、穏やかな陽光の差し込む庭。
その庭で家族が喧嘩することも無く和やかに
テーブルを囲んで談笑している。
長女役のジュリエット・ビノシュが庭を駆けていく後姿。
ほんの一瞬のカットだけれども、印象的な光景です。

同様に別の場面で、幼い子供達が無邪気に走り回り、
緑の豊かな草花が繁茂する庭を駆け抜けていく。
そして、ラストでは人手に渡るこの一軒家で、
パーティを開く老婦人の孫達が駆ける光景が映ります。

ジュリエット・ビノシュは既に40を過ぎつつも、
少女性の面影が残っているせいか、彼女が駆けていくシーンには、
ほんの少し切ない光が感じられます。
和やかなこの時を離すまいとするかのような、
愛しさを籠めた眼差しで撮られているように見えます。


子供の頃は今の時間がもっと早く過ぎればいいのにと思い、
大人になると今のこの時間が少しでもゆっくり流れればと願う、
子供と大人の違いはそこにある。
と、いう様な文章をどこかで読んだことがあります。


家にも物にも人の想い出が刻まれており、
人は物とともに想い出を未来へと残したいと願います。

しかしながら、いざその物の時間を止めること、
即ち美術館のケースの中に収蔵するように抱え込んだ瞬間、
物の命の息遣いもまた凍結され停止します。
美術品に生活の記憶を刻んだ愛着を抱いていた息子達が、
美術館に展示されたその品を見たときに、違和感を抱きます。

私自身も、ある程度のコレクターではあるものの、
ちょっと前から物は使わなければ仕方が無いと思い始めており、
物を溜め込んで「死物化」する恐れがある物は所有しない様、
所有する前に心がける考えが芽生えてきました。

映画の中では、画家がコレクターの家を訪れた時の、
自分の作品を牢獄に閉じ込められた様な想いを提示します。
しかし、さらに映画の中で老婦人はそれを熟知しながらも、
大切な記憶と想い出は物から離れたところにあることを、
美術品の整理をしながら言外に示していきます。


家族と人々と過ごしてきた想い出は自分の心の中に宿して、
自分のこれからの人生を生きていくこと。
その想い出は自分が生きて様々な経験を経ていく限り、
考えも見方も徐々に色と形を変えていきます。
だからこそ、今のひとときを大切に感じることができ、
同時に過ぎていく記憶に少し寂しさを抱きながらも
これからの未来をいいものだと感じることができる。

この映画の差出す、過去・現在・未来は
その全てを一本にして語っている、だから美しいのだと思います。
Loading