出来事と出来事の狭間で ~ サガン 悲しみよこんにちは2009年08月17日 23時43分57秒

ベストセラー作家、フランソワーズ・サガンの人生を描いた映画
サガン 悲しみよこんにちは」についてのこと。


1954年、フランソワーズ・サガンは18歳で書いた小説
「悲しみよこんにちは」で小説家デビュー、富と名声を手にする。
しかし、それは彼女の人生の荒波の始まりでもありました。
映画はそのデビューから没するまでの約半世紀を描きます。

初めに謝っておかなければならないのは、私は
フランソワーズ・サガンの小説も読んだことがありませんし、
ディアーヌ・キュリスの監督作を一本も観たことがありませんし、
シルヴィー・テステューの出演作も見たことはありません。

ただ、このシルヴィー・テステューの物憂げな眼差しに魅かれた、
それだけの理由で鑑賞したのです。

当初、予告を見た段階では、少女期のサガン、成熟期のサガン、
中年・老年期のサガンの印象が大きく異なるので、
別の俳優が演じていると思い、30歳ぐらい?の頃の、
ジーンズにシャツのサガンが本を読んでいるカットや、
煙草を翳しているカットの女優さんが一番良いな、と思ったら、
全てシルヴィー・テステューだというから驚きました!
久々に凄い。女優って凄い・・・・。

作品はその物憂げな瞳と唇に籠められた、名声の虚しさと、
楽しかった日々への憧憬が生まれた理由を丁寧に掬いとります。
言葉では媚びながらも、心のこもらない社交辞令の人間関係、
愛する人々との離別・死別、出版界での没落と人の縁の切れ目。
人が傍にいないと不安になり、ベットで泣き伏せるサガン。
ただひたすらに人との温もりを願うガラスのような心。


特徴的なのは、劇的な人生でありながら、
劇的な場面の描写を極力抑えていることではないでしょうか。
例えば、老年期の屋敷が火事になるエピソードでは、
火事の場面は出ては来ないし、息子と再会する場面でも、
その接触はごく僅かでそれほど描かれずに直ぐに分かれます。

そのかわり、物語はサガンの隣に寄り添うように、
隣で誰かに寝ていて欲しい彼女の横でそっと座るように、
サガンの普段の姿を映し出していきます。

人生は劇的な瞬間よりも、その瞬間から後の日常的時間の方が、
より深くそれについて考え、悩み、自分を形作ります。
何か衝撃的な出来事があり、その瞬間から考えが変わるのではなく
現実は諦めても諦めきれず、何度も何度も行ったりきたりします。

私たちもまた、映画一本で考えが劇的に変わるわけではなく、
それをトリガーにして、様々な日常を取り込んで行き、
ときに物憂げに宙を見つめて、少しづつ少しづつ、
自分を変化・成長させていきます。

とすれば、伝記映画を作るときに重要な分岐点を
幾つかピックアップして繋げることは、
人物を描き出すのではなくイベントを描いているのでしょうか?
この映画は、劇的な瞬間と瞬間の狭間を繋ぎながら、
主人公を描き出すという、真逆のアプローチを
試みようとしているように思え、
イベントを大きく振り被って見せない故に親近感を持つ。
それゆえに私もサガンに寄り添っていきたくなっていくのです。
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