神に焼かれるべき者 「フロム・イーブル ~バチカンを震撼させた悪魔の神父~」2011年01月18日 23時18分09秒

聞くほどに恐ろしい神父の行いが闇に葬られようとした
「フロム・イーブル ~バチカンを震撼させた悪魔の神父~」
についてのこと。


■「松嶋×町山 未公開映画祭」作品紹介
 http://www.mikoukai.net/004_deliver_us_from_evil.html
原題:Deliver Us From Evil
2006年 アメリカ (101分)
監督:エイミー・バーグ


趣旨は違いますが、2008年に「ダウト 疑いをめぐる寓話」を原作とした
映画「ダウト ~あるカトリック学校で~」が公開。
子供達に人気のあったカトリック学校の神父が少年に性的行為を行った
という疑惑がかけられるというミステリー要素を含んだ話で、
映画はメリル・ストリープのアカデミー賞ノミネート他、
数々の賞を受賞する華やかな功績を残しましたが、
現実の社会のカトリック教会にはどす黒い真実が隠されていました。

今回の映画を含め、未公開映画祭のキリスト教に関係する作品を見ると、
キリスト教がほとんど信用できなくなっていってしまう。
特に高位の地位にいる関係者の、下のスキャンダルによる失脚が多すぎる。
禁欲的に生きている人ほど誤ちが酷いものとなってしまうのか。

教えは全く役に立っていないのではないかと感じる数字では、
アメリカでは聖職者による性犯罪の犠牲者は100,000人以上いたという。
カトリック教会は1950年代以降、10億ドル以上を賠償金として支払った。
(映画による、映画完成時点のデータ)
これはいまやアメリカ国内に留まらないという。

この映画が追う、悪魔と呼ばれるオグレディ神父とは、
教区の幼い子供達に性的虐待を30年間に渡り行い続けた人物。
しかし、教会側は彼を修道院に入れると言ったにも関わらず、
神父を別の教会に移動させるだけに留まった。
オグレディはその新しい教会で再び犯罪を犯していく。

そんな人間にも関わらず、信じられないことに
この映画ではオグレディ自身が回想を述べており、
さらに社会の中でごく普通に振舞っている。
被害者とその両親の絞り出す様な痛々しい証言に対し、
彼のその様子は罪の意識を述べていますが遥かに浅いと感じます。

もっと問題なのは、彼自身は手紙で両親に自分の罪を告白し、
警察機関の取調べにおいても自分の行いを隠しませんが、
しかし彼の上層部にあたる司教たちは事の次第を否定し、
報告を受けたのが誰かもわからないととぼけ、
自分達で責任を負うことを全くしようとしない。
映画は、被害を受けた女性達がバチカンに手紙を届ける姿を追いますが、
それをバチカンは受取ること自体を拒否してしまう。

一体いつからこれら教会はこのようになったのでしょうか。
昨日今日の話でないのはもちろん、ここ数十年の話ではないはず。
遥か大昔、一番初めに誰かが間違った選択をしてしまった。
そこから脈々と続いた体質としての腐敗の歴史の積み重ねなのでしょう。
だから、誤った方向に行っていることに気づかない。
あるいは気づいていても認めようとしないことに罪を感じない。

人々を守るのが宗教と教会の役目であるのならば、
身内から人々に繰り返し危害を加える人間が出たならば、
徹底的に厳しい罰を与え破門にすべきでありましょう。
それにより教会の神聖さは保たれ、人々に知らしめることになるはず。

だのに、教会は愚かにも身内を守ることを選択し、
自分達の権威を守ることに固執しその信頼性を揺るがせている。
組織の末端にはもちろん玉石混淆の様々な人間がいます。
しかし、それを取り纏める人間は特定の人達に限られてきます。
ビル・マーにおちょくられる程度では気がすまない、
全社会から糾弾されていい様な唾棄すべき組織ぐるみの犯罪です。

その体質はもう、政治家や大企業の隠蔽体質と同様のもの。
何が人々のためになるのか、何が信頼を培っていくのか。
振り返ってそれを真剣に考えようという気が全く無い。

過ちは隠せば隠すほどに信頼性を失っていく。
権力を握ったときから、人間はそれを失くすことを恐れる。
隠して権力でやり過ごせばなくならないと信じてしまう。
ですが、絶対に隠し通せることなどないはずなのですから。

何故って、主はいつでも見ておられるのだから。
そうでしょう?

現在は教会内外で改革が進められていると言いますが、
そう簡単にはこれだけ被害を出した組織の浄化は終わらないと思います。
この映画は未公開映画祭の全作品の中でもっとも後味が悪い。
そしてここでもブッシュはクソッタレと思わせられる。
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