分岐点 「アーミッシュ ~禁欲教徒が快楽を試すとき~」 ― 2011年01月17日 23時20分47秒
アメリカに暮らす宗教集団アーミッシュの若者達を追った
「アーミッシュ ~禁欲教徒が快楽を試すとき~」
についてのこと。
「アーミッシュ ~禁欲教徒が快楽を試すとき~」
についてのこと。
■「松嶋×町山 未公開映画祭」作品紹介
http://www.mikoukai.net/014_devils_playground.html
原題:Devil's Playground
2002年 アメリカ (77分)
監督:ルーシー・ウォーカー
アーミッシュが取り上げられた映画というとほとんどの人が思い浮かべるのは、
いわずもがな、1985年のハリソン・フォード主演のミステリー映画
「刑事ジョン・ブック/目撃者」をおいて他に、
僕自身も後にも先にも直ぐには思いつきません。
カメラのあまり入っていけないアーミッシュの生活へ言及したという点で
「ジョン・ブック」は話題になったといいます(アーミッシュの人々は
その共同体以外の人々と積極的に接触を持つことが稀のため。)。
殺人事件を目撃したアーミッシュの少年を守るべくフォードが共同体に入り・・・
というものでフォードと少年の母親とのロマンスもありました。
今回はアーミッシュの人々の実際の記録です。
彼らはキリスト教の一派でもともとスイスにいましたが迫害を受け、
現在はアメリカのペンシルベニア州などに移民して共同体を作って住み、
アメリカ国内で約24万人が生活しているそうです。
彼らはキリスト教の一派でもともとスイスにいましたが迫害を受け、
現在はアメリカのペンシルベニア州などに移民して共同体を作って住み、
アメリカ国内で約24万人が生活しているそうです。
アーミッシュの人々の特徴として、快楽へ繋がることを禁止しています。
「車の運転」「お化粧」「読書」「音楽を聴く(賛美歌のみを聴く)」から、
服装も着飾ったものアクセサリーは駄目など、およそ我々からは、
慎ましい生活というよりも息のつまる生活とも感じる人も多いと思います。
車に乗らないので馬車や自転車に乗り、農耕と牧畜で暮らし、
基本的には近代文明の利器というものには頼らない。
(ただ、共同体を壊さないものならば最低限度に留めて許容することは、
この映画のなかでも付随的に取り上げられています。)
しかし、彼らは生まれてから死ぬまでずっとそうして生きるのではなく、
16歳になると「ルムシュプリンガ」という、共同体の外部に出て、
それまで禁止された快楽に興じることを許される期間があり、
それを経て21歳頃までに、アーミッシュになるか否かを決めて洗礼を受ける。
洗礼を受ければそこから先はアーミッシュとして生を全うすることになります。
他のキリスト教宗派が人の幼少期に洗礼を受けることに対して、
洗礼は個人の意思で受ける受けないを選択するというアーミッシュ。
ルムシュプリンガの期間、若者は、酒、タバコ、車、ロック、
アーミッシュ以外の異性との付合いなどなど考え付く限りの遊びに興じ、
やりつくしたところで、さて、どっちの人生を生きようか考えるのだそうです。
この映画はそのルムシュプリンガを生きる若者達のそれぞれの模様を追います。
僕には、死ぬ前に思いっきり楽しもうという考えに近い様にも見えます。
宗教に生涯を捧げて生きようということはある意味、過去の自分と決別し、
つまり一度死んで、新しい自分として生きる様なものではないかと。
外の世界に飛び出すときに、既に戻ることを決めている者もいるでしょう。
そういう人は、今この期間だけでも遊び尽そうという刹那的な想いもあるのでは。
実際、若者達の9割はアーミッシュとして生きることを選択するそうです。
(これは創設以来最も高い数字だということですが、
日本の若者の様に、もし安定志向を望むものだとすれば残念ですが。)
もっとも、若者達はただ遊びだけにのめりこんでいくわけではありません。
アーミッシュとして生きる以外にも様々な人生があることを知るのもこの期間。
職業も住む街も、人との出会いも外界では一気に広がる。
共同体にいては得られないその無限の可能性を選択する若者もいる。
それは共同体から出ることとなり、基本的に助けを得ることなく、
自分の強い意志と責任を支えに、まさに独り立ちしていくこととなり、
見方によってはかなり逞しい人間が形成されていくと思います。
このドキュメンタリーに登場する一人のアーミッシュの青年は、
ドラックに手を染め、父親とは険悪な仲、仕事を得れば事故に遭うという、
困難が幾つも降りかかり荒波にもまれて揺れ動きながらも、
過去について彼なりの決断を下して、強く生きようとしている。
僕はアーミッシュでもイングリッシュでもない。
僕はただの"僕"だよ。
同世代の誰よりも多くのことを感じた、彼のそんな繊細な言葉から、
アーミッシュもアーミッシュ以外も厳しいことを受け入れ、
飽きたからどうとか、楽しみを知ったら戻れないからではない、
自分自身で納得するまでやろうという瑞々しさを感じる。
振り返れば僕らの置かれた環境は、幼い頃から選択肢が多いが故に、
地に足を着ける場所を定められず彷徨っている人々がいる。
選択肢があるのにも関わらず選び取る自信を持たずに道を決めかねている。
アーミッシュの人々の様に、16年もの間、1つの共同体で情報を制限され、
欲求を抑制することにより、知的探求心や好奇心の欲求が一気に開かれ、
求めることに対して積極的になれるのかもしれない。
欲求を抑制することにより、知的探求心や好奇心の欲求が一気に開かれ、
求めることに対して積極的になれるのかもしれない。
僕達から見れば、アーミッシュの人々の人生は不自由で、
とりたてて楽しみが無い様に見えるかもしれないけれども、
彼らからすれば、僕達の方が不幸な存在なのかもしれない。
人によっては生きる目的を定められず、信仰も持たない者なのだから。
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