静養2010年07月14日 23時55分14秒

またまた、日が開いてしまいました。
このブログは春先になるとよく滞るのですが、
今年は特にひどいですな。


ただ、つい最近まで体調を崩しておりまして、
昨年に腎臓を壊したときもこの時期から兆候が見えていたので、
再び気を引き締めねばな、と思う次第です。

生活改善も含めてですが、今年はいろいろ新しいことをしているため、
体も心の適応と徐々にズレが生じてきたのかもしれません。
また、奮闘に反して成果が上がらない焦りもあったのかもしれません。


最近、ふとしたことから高校の担任の先生と会う機会がありました。
近況を伝え合い、近年の学校について論議を交わしたりしたのですが、
「はまりこみ過ぎて見失うなよ」とも親身に心配されました。

やっぱり先生はいつまで経っても先生ですね。
こちらの心の隙間やふとした影などちゃんと見通しています。


また、昨日までは祖父の三回忌法要で里に帰っていました。
早朝からの法要のためにお寺の近くのホテルに一泊しましたら、
日常生活と隔離され久々に何もしない時間を過ごすことができ、
思いがけないゆったりした静養になりました。
今度からたまにビジネスホテルに逃避しようかしら。


昨年からの腎臓病の治療もまだ続いております。
さらに年を越すまで続きそうです。

恩師の言葉を深く刻み、今一度何が肝要かを考えるのでした。

映画が自分を創っている。2010年07月18日 06時37分47秒

ずいぶん前のことですがふらりと仙台駅前の丸善に立ち寄って、
書棚を眺めていたら表紙買い・タイトル買いをしました。
最近は滅多にやっていなかったんですけどね。


購入した本は「僕の体の70%は映画でできている」。
著者は小島秀夫。
ゲーム「メタルギアソリッドシリーズ」を手掛けたゲームクリエイターで、
その作品スタイルや無類の映画好きという一面から、
小島秀夫「監督」と呼ばれています。

その小島秀夫がこれまでに鑑賞した映画の中からお勧めの映画について語る。

昔、僕は東京ゲームショウで監督のトークショーを観覧したことがあります。
他には当時のワープの飯野賢治、カプコンの岡本吉起、セガの中裕司がいたように思います。
記憶だけが頼りなので違ってたらごめんなさい。

小島監督の作品群、特に「ポリスノーツ」「スナッチャー」には、
明らかに好みの映画への強い愛情を感じますから、
こういう本はあってもおかしくないよなあ、と思いながら手に取ると、
ゲーム雑誌に連載された映画評を編纂したものとのこと。
さらに、元々は英国のゲーム雑誌に連載していたものを転用したらしい。

それはそれとして面白そうだったのロクに中身も読まず買いました。
タレント本のような印象でしたし、やや疲れてたのでほんの息抜きだったのですが。



帰って読んで驚きました。
涙が溢れて胸が熱くなってしまいました。

そこに書かれていたのは映画への本当に純粋な愛情でした。

映画本を読んで泣いた経験はこれまでに、淀川長冶先生と大林宣彦先生の本しかない。
まさかその次に名前を並べるのが小島秀夫だったとは。


特徴としてはまず、その映画を始めて見たときの体験を当時の状況も交え、
どんな映画館で見たのかどんな友人達とみたのかを適度に添えて綴っている。
自然と、小島秀夫自身のエッセイにも自己紹介にもなっている。

テレビの日本語吹替で見たとか、レンタルビデオで見たとか、
だから自分の中ではこの俳優の声は吹替のこの人しかないなど、
「そうそう」とも「へー」と感じられる書き方。

「適度」というのが大事で、当然カメラワークや音楽の鳴らし方も細かく語りますが、
長々と陶酔したオタク評ではなく、読み手に分かりやすく心がけている。
見所を語るくだりはほとんど実況中継か活動弁士のそれに近く、
読んでるだけで映像が目に浮かんできて、「是非見たい!」という気持ちにさせる。

「見たい!」と思わせるのは至難の技。非常に羨ましい。
僕も多くの稚拙な映画評を書いてきたものの、
果たして読み手が「見たい!」と思ったことはあったのでしょうか?


最後に好きな台詞で結ぶスタイルは、かなりかっこつけていますが、
そういうことをしても鼻につかない、嫌らしくないのが良い。
なぜなら「ああ、この人、本当に映画が好きなんだなあ」と感じさせるから。
そういうのは文章や語りのテクニックではない。映画の愛し方によるだけだと思います。

現代映画への否定的な発言も少なくはない。
しかし、失望はしていない。むしろ、古きも新しきも、全てを愛している。
駄目なところがあっても、良いところを見つけてそこを好きになっている。
失望やただの批判からは何も生まれないことを熟知している。


一つ、気づいたのは、小島秀夫の"記憶の中にだけ"あるシーンがたまに登場すること。
「パピヨン」や「ナバロンの要塞」の評にて書かれている。

淀川長冶が大林宣彦の「異人たちとの夏」を評したときにも、
淀川さんの記憶の中だけにあるシーンがあったという。
「暖簾がひらひらとなびいてね…」という淀川さんの言を聞いて、
大林監督は「あれ?あそこはなびいてないはずだけど」と思ったという。

後に、大林監督は「でも、淀川さんの語ったものの方が凄く良いシーンなのね」と言い、
「あれはね、映画に恋をしちゃった人なんだ。」と。
恋をしているから自分の記憶の中でさらに美しくしていると。
それは大林監督にも言えることのように思います。
小島秀夫も映画に恋をしているのでしょう。

恋をしているから、語るときには心の奥からの熱が篭る。
恋をしているから、ときには映画の「あばた」も「えくぼ」に見える。
恋をしているから、映画に触れる全てのことを愛おしく思えるのでは。


映画に対する小難しい話よりも、きらきらと輝いた目で好きな映画を語る人、
その人の語りを聞いているだけでワクワクする、
映画界が求めているのはそういう人ではないでしょうか。


この本は最初に「パピヨン」で始まります。
「パピヨン」に対する批評を是非読んでいただきたい。
次に「ある日どこかで」。
どちらもこの本を読んで「見たい!」と思い、直ぐにレンタルに走りました。
映画評でも、映画本編でも存分に感動を味わいました。
今、「見たい!」のはチャップリンです。


最後に、「パピヨン」の30周年記念DVDを見た小島秀夫の一言で結びましょう。


面白い。震える。泣ける。「これでまた何日かは生きていける!」


これこそ、全ての映画ファンの、好きな映画に対する想いを代弁する名言です。

ある日、どこかで2010年07月19日 23時42分39秒

ある日どこかで
ある日どこかで
ある日どこかで(原作)
ある日どこかで(原作)

昨日の小島秀夫に倣いまして「ある日どこかで」を紹介しましょう。
1980年のアメリカ作品で、ジャンル的には恋愛になります。
原作はリチャード・マシスン。監督はジュノー・シュウォーク。


この映画を見たいと思った理由の一番はその筋の物凄さにあります。
これはただ愛の力のみで時を越える物語。

主人公は劇作家として成功した青年・リチャード。
彼はスランプに陥り湖畔のホテルに逃げ込む。
大きなホテルで訪れた著名人の写真や記念の品を展示する部屋があり、
彼はそこで美しい女優・エリーズの写真に一目惚れする。
しかし、その写真は70年前のもので、彼女は既にこの世を去っていた。

彼は決意する。どんなことをしても70年前の彼女に会いに行くと。

ここからが凄い。
彼は時間を超える体験と理論を持つ大学教授に会いに行きその方法を学び、
70年前のコインなどの小物を身につけ、現代の品を排除した部屋に閉じ篭り、
テープレコーダーに"ここは1912年だ"と吹き込んだ自分の声をひたすら聞き、
自分に暗示をかけ、遂にタイムスリップを成功させてしまう!

タイムマシンの製作に没頭する方がまだ現実的ではあります。
しかし、これほど力強くシンプルな手段はありません。
そういえば、藤子・F・不二雄のSF短篇集の一篇にも、
タイムマシンの製作に没頭していた男が遂に辿り着いた結論は、
"時を超えられると強く念じる"ことだった、という話があったはず。


小島秀夫はこのどう考えても荒唐無稽な時間跳躍を、
小物の使い方やエリーズの美しさによって丁寧に共感させている、
と評価していましたが、僕にとってはリチャードを演じているのが
クリストファー・リーヴという点で何もかも受け入れてしまった。

リーヴが演じた役柄の中で最も有名な男「スーパーマン」。
スーパーマンは事故で死んだロイス・レインを救うため、
"愛の力"を強く念じることによって時空を超えるのである。
つまり僕は、「ある日どこかで」のリチャードに
「スーパーマン」を重ねたわけです。


それだけで俄然見たくなった。ここまではまだ喜劇の域。
まだまだ、「変なものみたさ」の自分の特殊嗜好から出ていない。
しかし、「ある日どこかで」という語感と評から伝わってくる印象には、
単に変な映画ではない、不思議なものが感じられました。


そして、実際に鑑賞してみると…これが良い。

いい、というのは感動したとか、泣けた、とか温まるとかとも違う。
とにかく、いいんだよ。としか言えない。
鮮烈とも刺激的とも違う。やられた!とも違う。難解でもない。
公開当時は興行的にも失敗し短期間の上映だったらしい。
そこから、"いい"と思った人の口コミで長い時間をかけて評価されたらしい。
そうだと思います。強く焼きつくような印象ではないのです。
時折、ふと、物思いに耽るとき、思い出す。そんなセンチメンタルな作品。


僕のお気に入りのシーンを述べると、
エリーズは現代で死んでいると書いたものの、冒頭に老婦人として少しだけ、
リチャードの前に姿を現しており、この時、ある品物を手渡す。
これが懐中時計。既にこの時から魔法が始まっている。

この老婦人は、"過去でリチャードと出会った"エリーズです。

そして、問題のエリーズの写真にリチャードが惚れる場面。
写真に光が差し込み、その光の中から彼女の優しい微笑みが浮び上がる。
しかし、この場面は後半でさらに重要な仕掛けがある。
時間を超えて巡り合い、エリーズもリチャードに恋をするが、
ある時、まさにその写真を撮るときが来る。
カメラを向けられ穏かに微笑むエリーズ。
それを見守るリチャードがいる。微笑んだままエリーズは彼に視線を向ける。
その時、シャッターが切られた。

素晴らしい。

あの写真の微笑みはそもそもリチャードに向けられたのだと分かります。
つまり、二人が時を超えて巡り合うことは荒唐無稽な夢ではなく、
ここで完璧に定められた運命であったこととして完成します。


これらの一つ一つが暖かな日差しと、穏かな音楽と、優しい言葉で繋がり、
実に不思議な印象を残して自分の中に溶け込んでいきます。
普通は記憶に残らない。小品は小品としての印象で終わってしまう。

しかし時々、「ある日どこかで」とタイトルを呟くと静かに蘇ってきます。
そして暫し周囲に映画の記憶が漂い、また消えていくのです。
そんな映画です。もう決してキワモノではありません。


僕の呟き方は「ある日、どこかで」。「、」が入ります。



この「ある日どこかで」、現在日本各地で進行中の「午前十時の映画祭」の
50本の中に選ばれていることに後になって気づきました。
公開当時の状況を聞くに、30年の静かに確かに流れてきたものの一つの到達です。

我が県のMOVIX利府では12月18日から12月24日まで一週間公開される予定。

なんと、クリスマス・イヴにこれをスクリーンで観られるのか?
まるで今年最高の魔法ではないでしょうか。


みなさん、是非、観て欲しい。
ロンリーな方も恥ずかしがらずにスクリーンで観てください。
必ず、いい、と感じるはずです。
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