己の中の仏2009年01月31日 23時05分31秒

鎌倉時代の禅僧、道元の生涯を描いた映画、
「禅 ZEN」についてのこと。

高校時代に習った記憶として、
鎌倉仏教の一派として曹洞宗があり、
開祖として道元がおり、
ただひたすら座禅を組む只管打坐、
修行を続ける中に悟りがあるという修証一等、
と言ったキーワードだけを覚えた以外は、
道元に対する知識はありませんでした。


本作は、大谷哲夫の著書
「永平の風 道元の生涯」を原作として
道元が宋に渡り、帰国後、興聖寺を開き、
54歳で入滅するまでを、比叡山からの弾圧、
達磨衆との合流、北条時頼との出会い等を交えて描きます。

監督は高橋伴明。
ピンク映画から始まり、時にドロドロした、
時に過激な映画を撮ってきた監督が
こういう映画を撮るのは興味深いですし、
だからこそ純に蒸留されたものが完成する気がします。
それこそ、「喜びも、悲しみも、あるがままに」。

武田鉄矢が昔、ラジオ番組で禅のことを
熱心に語っていたと記憶しているのですが、
座禅や瞑想を好む人は少なくなく、
理由の一つとしては只管打坐であれば
特に特別な用意を必要とはしていないことだと思います。

もちろん、ただ座っていれば良いわけではなく、
私欲を捨て自問自答し、己を見つめ直すこと。
そうして精神を高めていくと自ずと現れる、
自分は優れた人間、高潔な人間であるという錯覚。
映画の中で道元はそれすらも捨てようとします。
それが純粋かつ強き意志として、
言葉に、声色に、佇まいに現れ、
心打たれるような波動を放っていきます。
その質素にして高貴な道元を二代目 中村勘太郎が力演します。


脇を固めるキャストも藤原竜也、笹野高史等が好演、
その中でも注目したいのは汚れ役を演じた内田有紀です。
幼い頃に道元に助けられた浮浪児が、
成長して娼婦になって再会してから、
道元の教えに徐々に心を動かされていく役どころ。
汚れ役ではあるものの、彼女もまたこの映画の良心であり、
人間の荒んだ心の中にも壊れていない部分があるという、
パンドラの希望を指し示すものであり、それこそ、
「己の中の仏を観よ」という映画の道元の教えに通じるもの。
映画用にオリジナルで加えられたということですが、
これは成功だと思います。

監督は彼女に対し「私生活でもいろいろ(離婚など)あった、
だからこそ汚れ役もできるのではないかと思った。期待以上だった。」
と評していますが、まさにその通りのように思います。
彼女も30歳を越し、瘡蓋の一つや二つを持つようになった。
無論、誰でも好んで痛みを経験はしたくありませんが、
辛く悔しい経験は時として、どんな職業であれ境遇であれ、
人間を大きく飛躍させることがあります。

いわゆる陽の役ではないものに挑戦した作品では、
1998年の宮本亜門が手掛けた「BEAT」がありますが、
あの役を当時演じるにはやはり、精神的に若すぎたはず。

「喜びも、悲しみも、あるがままに」。
彼女にとっても悟りの一つであったならば、
今後さらに良い女になるかもしれません。


只管打坐は現実には難しいですが、
常に己を見つめ、自問自答し、思考を止めないこと、
それは人生において時折思い返して行きたいです。
初めは、時折。ストイックになれない凡人なものですから、
そこからまず始めましょう。

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