気持ちの修繕 ― 2008年11月07日 23時43分46秒

「殯の森」でカンヌ映画祭グランプリを受賞した
河瀬直美監督作「七夜待」についてのこと。
<物語>
タイ・バンコクの南、サムットソン・クラームにやってきた
日本女性・彩子はホテルへ向かうためにタクシーに乗るが、
行き先が違い、運転手に襲われて森の中に逃げ込む。
森の中で出会ったフランス人青年グレッグに助けられ、
彼が世話になっているタイ人母子と出会う。
そして彩子とグレッグとタイ人親子の、言葉が通じないながらも
奇妙な同居生活が始まった。
「萌の朱雀」「殯の森」がカンヌで評価され、
その他のインディペンデント系作品も他映画祭で評価されたものが
あるとはいえ、やはりマイナーな扱いであった河瀬作品ですが、
近年カンヌでグランプリをとったとは言え、
ワイドショーで紹介されたことは
さすが長谷川京子主演ということが影響しているのでしょう。
では長谷川京子主演で分かりやすい平凡な映画になったかと
邪推するとなんのその、良い意味で全く崩れぬ河瀬直美の
作品世界がそこにしっかりと広がり、
ハセキョーなどというミーハーでモデル然とした響は
微粒子大に粉砕されます。
「殯の森」では尾野真千子を泥まみれにしましたが、
今回も長谷川京子を見事に泥だらけにします。
そういうことをやってこそ初めて女優に一歩近づける。
撮影の朝に役者に自分の行動だけを書かれたメモを渡すだけで、
相手との間や呼吸は自分達で演じていくという手法を取っただけあり、
画は起こったことをそのまま切り取ったように展開していきます。
ドキュメンタリー風、とでも言いたくなるのでしょうが、
与えられる情報も極めて少ないことから、
それ以上に日常の一部のように感じられます。
彩子の日本での日常も不明。どうやら観光らしいことは
最初にガイドブックを片手に巡っていることから感じられますが、
彼女の思考や価値観さえもセリフでは語られることはありません。
グレッグやタイ人親子に関してはなんとなく動機や過去の断片は
読み取れますが、それでも積極的な語りはありません。
謎が多いのではなく、日常では語る必要が無いことは語らない、
これらの人物がさらに互いの言語を理解しているわけではない状況。
しかしそれは複雑化させるよりもむしろ、
言葉による説明・意思疎通を早々に放棄させ、
活字で理解する小説的語りではなく映像で感じる映画的語りへと、
かえってシンプルにしていきます。
時間的説明さえも積極的ではなく、七つの夜を過ごすと言いながらも、
1日目、2日目と明確な表示も出ず、日が変わる描写さえも無く、
言語、時間、設定、それらの説明を全て取り払って、
映画はファンタジーの空気感を醸していきます。
タイ古式マッサージを彩子が体験する中で、
ますますスピリチュアルに突入していく頃、映画は突然現実へ。
ある事件が起きたとき、彩子達はお互いを攻撃することになります。
殴り、罵声を浴びせ、蟠りを一気に噴出する彼ら。
事件が収まったとき、また彼らは良い関係に戻っていくのですが、
いかに我々が絶妙なバランスの上に成り立っているかを
垣間見えるエピソードだと思います。
ファンタジー、信頼、愛情、現実、不満、苛立ち、
それらは対極ではなく近い距離にあります。
ほんの些細な行き違い、そして誤解から我々はすれ違い、
相手を避け、傷つけ、孤独にさせてしまう。
彩子もグレッグもあるいは過去に経験したかもしれず、
だから一つ屋根の下に寄り添い安息を得ていたのかもしれません。
しかし、入ったヒビはまた修繕することができるはずです。
我々はそれを幾度と無く繰返して
互いを僅かづつ理解していくのではないでしょうか。
河瀬直美監督作「七夜待」についてのこと。
<物語>
タイ・バンコクの南、サムットソン・クラームにやってきた
日本女性・彩子はホテルへ向かうためにタクシーに乗るが、
行き先が違い、運転手に襲われて森の中に逃げ込む。
森の中で出会ったフランス人青年グレッグに助けられ、
彼が世話になっているタイ人母子と出会う。
そして彩子とグレッグとタイ人親子の、言葉が通じないながらも
奇妙な同居生活が始まった。
「萌の朱雀」「殯の森」がカンヌで評価され、
その他のインディペンデント系作品も他映画祭で評価されたものが
あるとはいえ、やはりマイナーな扱いであった河瀬作品ですが、
近年カンヌでグランプリをとったとは言え、
ワイドショーで紹介されたことは
さすが長谷川京子主演ということが影響しているのでしょう。
では長谷川京子主演で分かりやすい平凡な映画になったかと
邪推するとなんのその、良い意味で全く崩れぬ河瀬直美の
作品世界がそこにしっかりと広がり、
ハセキョーなどというミーハーでモデル然とした響は
微粒子大に粉砕されます。
「殯の森」では尾野真千子を泥まみれにしましたが、
今回も長谷川京子を見事に泥だらけにします。
そういうことをやってこそ初めて女優に一歩近づける。
撮影の朝に役者に自分の行動だけを書かれたメモを渡すだけで、
相手との間や呼吸は自分達で演じていくという手法を取っただけあり、
画は起こったことをそのまま切り取ったように展開していきます。
ドキュメンタリー風、とでも言いたくなるのでしょうが、
与えられる情報も極めて少ないことから、
それ以上に日常の一部のように感じられます。
彩子の日本での日常も不明。どうやら観光らしいことは
最初にガイドブックを片手に巡っていることから感じられますが、
彼女の思考や価値観さえもセリフでは語られることはありません。
グレッグやタイ人親子に関してはなんとなく動機や過去の断片は
読み取れますが、それでも積極的な語りはありません。
謎が多いのではなく、日常では語る必要が無いことは語らない、
これらの人物がさらに互いの言語を理解しているわけではない状況。
しかしそれは複雑化させるよりもむしろ、
言葉による説明・意思疎通を早々に放棄させ、
活字で理解する小説的語りではなく映像で感じる映画的語りへと、
かえってシンプルにしていきます。
時間的説明さえも積極的ではなく、七つの夜を過ごすと言いながらも、
1日目、2日目と明確な表示も出ず、日が変わる描写さえも無く、
言語、時間、設定、それらの説明を全て取り払って、
映画はファンタジーの空気感を醸していきます。
タイ古式マッサージを彩子が体験する中で、
ますますスピリチュアルに突入していく頃、映画は突然現実へ。
ある事件が起きたとき、彩子達はお互いを攻撃することになります。
殴り、罵声を浴びせ、蟠りを一気に噴出する彼ら。
事件が収まったとき、また彼らは良い関係に戻っていくのですが、
いかに我々が絶妙なバランスの上に成り立っているかを
垣間見えるエピソードだと思います。
ファンタジー、信頼、愛情、現実、不満、苛立ち、
それらは対極ではなく近い距離にあります。
ほんの些細な行き違い、そして誤解から我々はすれ違い、
相手を避け、傷つけ、孤独にさせてしまう。
彩子もグレッグもあるいは過去に経験したかもしれず、
だから一つ屋根の下に寄り添い安息を得ていたのかもしれません。
しかし、入ったヒビはまた修繕することができるはずです。
我々はそれを幾度と無く繰返して
互いを僅かづつ理解していくのではないでしょうか。
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