絶対の信頼 ~「ゴールデンスランバー」2010年02月19日 23時24分11秒

外国の映画で、例えば「インティマシー/親密」や
「カンバセーション/盗聴」のように、
カタカナタイトルの後に二字熟語をつける場合がある。
ゴールデンスランバーで付けるとした場合、
「ゴールデンスランバー/信頼」ともなろうか。
(「コンフィデンス/信頼」と被るが。)


本作は宮城県仙台市在住の作家・伊坂幸太郎の
同名小説をオール仙台ロケで撮影。
以前に同氏の「アヒルと鴨のコインロッカー」を
仙台ロケで撮影した中村義洋監督がメガホンを取った。

僕は原作を読んでいないけど、大筋を見て中村監督や伊坂氏の
インタビューを読む限り、二人とも過去の映画が好きで
これまでも多かれ少なかれ意識している傾向が強い。

本作は古くはヒッチコックの「逃走迷路」「北北西に進路をとれ」等の
巻き込まれ型逃走劇で、その系譜上の最近のアメリカ映画ならば
「エネミー・オブ・アメリカ」等の巨悪の陰謀論を
日本の地方都市を舞台にしてやってみようというところ。
それを分相応に収めようとせず堂々やっている。

過去の映画を想起させるパーツを組合わせ、
主演の堺正人、竹内結子のスターの周囲に
濱田岳、柄本明、永島敏行、香川照之らを配置し、
表面にとっつき易さと掘り込みやすさを併せ持ちながら、
内面には、数十年前の映画が持っていた、
鑑賞しやすいが見返すごとにじわじわと魅力が染み出てくる、
という領域にもう少しで至るような気がする。
前述の"型"は型として観客の牽引に使いながら裏で、
根本のテーマは静かに深く流れていることを感じさせる。


同じ作者で同じ街が舞台で、となると
デジャヴと類似点が浮かび上がるのは自然だけど、
森淳一監督「重力ピエロ」での兄弟の父と母の想い出が
雪原の中に取り残された一台の車であるのと、
本作の青柳が晴子に愛を告白するのがやはり、
野原に取り残された一台のボロ車である。
また、「死神の精度」の最終章で不肖の息子が帰還する様に、
本作の花火職人の息子も終盤で帰還を果たす。
さらに、青柳が過去から現在までの仲間達と関わり結実する様を、
大風呂敷を拡げる様に表現したのは「フィッシュストーリー」
・・・なのかもしれない。

それらからはやはり、伊坂氏が本作に限らず共通して、
人間同士の"信頼"に重きを置いているように思える。

特に本作のテーマは"信頼"であることは間違いない。
それを静かに醸し出すのではなく台詞で語りすぎるところに、
現時点での限界が感じられるのだけれども、
実に後味はすっきりとした映画で、そして僕は好きだ。


僕は映画に自分自身を重ねて鑑賞することが多く、
自分に映画を重ねる思考が染み付いている。
そんな風に自分が重なる映画に出会ったとき、勇気づけられる。
「ゴールデンスランバー」にもそう、感じた。


僕個人の哲学になるけれども、人間同士の信頼において
本当に信頼できる相手かどうかは、対する自分が
ボロボロになったり情けなく醜い姿を晒したときに
相手がどう反応を示すかで決まると思う。


主人公・青柳はごく普通の人の良い純朴な青年で、
過去に暴漢に遭ったアイドルを助けてプチ有名人になった。
現在でも当時のニュースを記憶した人にサインを求められる。
その信頼が首相爆殺事件の容疑者になることで一気に崩れ去り、
マスコミも掌を返したように彼を責め立てる。
(対して一般人の反応の変化がよく描かれていないのだが。)

しかし、かつての恋人・晴子を始め、大学の後輩や職場の仲間、
昔助けたアイドルも青柳の潔白を信じて助けを差し伸べる。
もちろん、青柳の両親も彼の"人間"を信じている。


人を信じることには二種類の成立ちがある。

一つは、問題を起こすことなくこつこつと積み上げていく信頼。
あなたが出会った相手は良い人だった。
やさしいし明るいし楽しいし、そこそこ頭も顔も良い人だ。
しかしある時、その人は何か大きな問題を起こした。
あなたはその人を信じることが出来なくなった。
"裏切り""幻滅"。その思考でしかその人を見られず、
恐れと不安と疑念が心を支配してしまった。

もう一つ。
あなたは出会った相手によって救われ、人生が意味を持った。
よく知らないことも多いけれども、その決定的な行いや言葉で、
"この人は最後まで信じられる"という確信を持った。
以降、どんなことが分かってもその人を信じ続けることができる。
前者に対して言うならば、"絶対的な信頼"だろうか。

多くの場合、人は過去よりも現在の状態を重視し、
信じようとするのは今目の前にしている相手だと思う。
それは過去よりも現在の方がインパクトがある場合で、
強烈な印象を残す方で上書きされてしまう。

しかし、過去に強烈な印象を受けた場合は、
現在に至ってもそのとき感じたものは色褪せることなく、
いつまでも上書きされることなく心に残り続けることがある。
その強烈な印象を残した何かがその人にとって、
悪いことであればトラウマになってしまうのだが、
そうではなく、"相手を信じられる"ものだったとき、
それは揺ぎ無く強固なものとなって、人を支える芯になる。


逃亡者である青柳を支えているのは、人に対する信頼だ。
いかに「とにかく生きろ」と言われても生きられるものではない。
後輩、職場の仲間を辿る道のりはその信頼の確かめ合いだ。

そして、彼の中にもっとも強く残っている
最後まで信じられる相手は、晴子だ。

その想い出の場所、野原の中のボロ車に青柳は辿り着く。
錆付いたボロ車はボロボロの彼自身だ。
僅かに残ったガソリンは彼自身の気力だ。
ボロ車のエンジンが唸りをあげてどうにかかかるとき、
青柳自身の心も前に向かって動き始める。

同時に車内に残したメモによる、
晴子とのまっすぐなやり取りによって
ボロボロの彼は揺ぎ無い確信を掴む。
"絶対に信じあえる相手がこの世にいる"と。


人間はそのような相手に巡り合ったとき、変わり始める。
青柳も恐れと不安から解放され、本来の自分を取り戻す。
きょどきょどした振る舞いは薄れ、まっすぐに走り続ける。
それは全て、信頼できる相手に自分の心を預けられたからだ。

戦いの果て、青柳は逃亡者どころか存在しない人間になるが、
そうなっても、彼の心までは逃げてはいない。
状況はそうだが、全てを飲み込んで、やるべきだと決断したのであり、
問題に正面から向き合わずに逃げ出したのではない。
だからこそ、この映画の後味は鬱屈することがない。

地下水路を走る青柳の目の先に光が見える。
それは絶望の暗闇の中で見えた確かな光であり、
その光に向かって走る限り自分は大丈夫だという
絶対の信頼なのではないだろうか。
(僕はこのシーンでエンドクレジッドを出しても良いと思う。)
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