激動の記憶2008年02月17日 23時29分00秒

現状で連続モノを書くのはちょっと難しいかしら。
まあ、私のテンションの問題でもあるんですが。

山形最終記。こちらの建物は最上義光公の騎馬像から程近い
昔の病院跡なんだそうです。
明治以降の富国強兵期の外国人知識人・技術者を続々招いたときに、
山形も類にもれず、医学博士を招いて医療の発展に貢献したのだそう。
現在はその当時の品々を展示する記念館になっています。

さてさて、2日目最終日は午前中はこれらの史跡を少し巡り、
買い物をして15:10頃から最後の作品を鑑賞いたしました。

ちなみに買い物は新しい皮の手袋と、
中南米風の工芸品&帽子。
これについては次回のお話で。


最後に観たアンコール上映作品は、
去年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でグランプリを受賞した、
中国の作品「鳳鳴 -中国の記憶-」。
約3時間もある長編作品です。

鳳鳴という名の女性が、1950年代以降の中国で起きた
反右派闘争により右派のレッテルを貼られ、
迫害と差別を受けながら名誉回復まで耐えた約30年を振り返る、
歴史の下層部から暗部を抉る骨太な作品。


鳳鳴氏は望んで右派に身を投じたわけではありません。
新聞記者である夫の執筆した批評がきっかけとなり、
党上層部の不快感を買い、左派強化のための
生贄にされたと言ってもいい犠牲者といえます。

こうした例は日本における一部勢力の弾圧や、
ドイツにおけるユダヤへの仕打ちや、
大戦期のアメリカの日系人差別等々、
結束を固めるための魔女狩りの対象として差し出される、
不幸と言っても足りない冤罪であります。

鳳鳴氏は言います。
まだ100%の犠牲者が名誉を回復したわけではないと。
それが達成されない限り、政府が完全に誤りを認めたことにはならないと。
これはどこの国においても身につまされる想いがあると信じたいです。


重く圧し掛かる作品ではあるものの、この作品、注意が必要です。
3時間もの時間を鑑賞する気合もさることながら、
カメラが鳳鳴の前に据えられたまま、微動だにしない、
つまり、画がほとんど変化しないのです。

通常、こういうドキュメンタリーは子供時代の写真が挿入されたり、
その時代を説明する映像資料が使われたりなどして、
変化をつけていくことで長時間の鑑賞に堪えうるものとするのに、
ほとんど変化がない映像のまま、
休まずこちらが疎い言語で語られるものですから、
たちまちにまぶたが下がってくることは保障されます。
もし、DVD等で鑑賞する機会があれば、
事前に睡眠は十分にとっておくこと。


そんなこんなで18:30頃に全ての作品を鑑賞し、
一路、仙台への帰路へついたのでした。
心配していた仙山線のストップにもならず、実にスムーズでした。
旧作の金曜上映会というのも開催されているので、
また機会があれば行きたいものですよ。

王国の出入口2008年02月19日 23時39分30秒

キネマ旬報の定期購読を始めて1年半程度になりますが、
数ヶ月前から紙の質が変わったことが気になります。

以前より薄く柔らかい紙に変わったため、印象としてはちょっと安い感じ。
でも値段は落としていないので、紙の値に変化があったと見られます。
原因はカップ麺等の値も引き上げた原油高でしょうかね。
製紙工程でも石油が必要ですから。
これでキネマ旬報が休刊等にならなければいいのですが。


さて、それでは今日は「テラビシアに架ける橋」。

<物語>
絵が好きな少年ジェシーは学校ではイジメをうけ友達もいなかったが、
風変わりな少女レスリーが転校してきたことから
彼の周りの日常が変化し始める。
隣の家に引っ越してきたレスリーと毎日のように、
土地の裏の森へ冒険に繰り出し、
そこを「テラビシア」と名付け自分たちの架空の王国を作り上げる。

原作を読んでいないもので、
「テラビシア」は架空の王国であり、
ジェシーとレスリーの想像力の産物である。
そう気づくのにはしばらく時間を要しました。
何しろ「ナルニア国物語」のスタッフの制作、
と強調されていたものだから
異世界ファンタジー物かとも思いましたから。

子供の頃には想像力で補えるという特技がありました。
私もお菓子の箱を張り合わせた、
長方形だらけの塊をロボットと想像したりしたものです。

今でもイメージ力は持っているつもりですが、
子供の頃のそれよりも論理的思考が混じっている気がします。
そこには理由付けが伴ったり、分析が混じり、
少なからず枠が作られ、枠の範囲内での想像となります。
そうではなくジェシーやレスリーのように
イメージが直結するようになることが望ましいのですが。

そんなことを考えている自分。
いつのまにかそう考える側に周った自分。
そういう目で見る側になった自分。
ノスタルジックな想いを呼び起してくれることが嬉しくも、
また寂しくも感じるのでありました。

結末はレスリーを襲う悲劇により
ジェシーの殻が再び閉じるような危うさを漂わせますが、
彼の心境の変化と精神の成長は随所で見て取れると思います。
数回、歌が流れる場面で初めは楽しさだけがあり、
次に事件の後ではその歌詞をかみしめるように全く印象が異なります。
彼を見守る教師や、かつてのいじめっ子が彼へ残された希望であり、
一見すると避難所のように見えた
テラビシアから現実社会へ渡る橋の向こうに
待っている人となるのかもしれません。

幸ありき場所2008年02月20日 23時16分03秒

2連休なのでゆっくりしようと思いきや、
家の前が突然のガス管工事でドリル音が盛大に鳴り響きます。
しかも水道管にヒビがあるので水道局も来るんですと。

家にいるどころではないので、やっぱり映画を観に外出です。
でもそんなことが無くとも行きますけどね。

今日はセントラル劇場改め桜井薬局セントラルホールにて
フランス=イタリア=ロシア映画「ここに幸あり」を鑑賞。
その後ゆっくりめの昼食のためにni vu ni CONNU cafeへ。

折角セントラルまで来ているのだから
その近くのカフェを開拓すればいいものを、
わざわざ市内の混雑を車で20分かけて
仙台フォーラム裏のCONNU cafeへ。
そのくらいこのカフェのファンですから。

お気に入りのいつもの「子羊のクスクス」を、とおもったら
いつもは茄子が入っているところ、季節柄で蕪になっていました。
そんな微妙な変化が微笑ましいです。
クスクスにスパイスを溶かし込む時の一気に香が増す瞬間が好き。

丁度、お昼の混雑を過ぎたあたりのようでゆったり昼食です。
ここに来ると実に時間がゆっくり流れるように感じます。
店内に一見して時計が見当たらないところからも。
私の場合の「ここに幸あり」です。

いつもの通りフランスかりんとうを買って帰り、
パンフを読みながらお茶を頂くのがパワー充填法です。
明日も頑張れる。あと10年戦える(?)。


さてそんな「ここに幸あり」の話です。

監督はオタール・イオセリアーニ。
過去4年前に「月曜日に乾杯!」という
仕事から解放されて突然旅に出てしまう男の話を撮っています。
今回の話も、突然大臣の職をクビになり、
愛人にも別れた妻にも愛想をつかされ、
さらに文無しになってしまった主人公・ヴァンサンが、
忙しい時には会えなかった友達と会い、
新しい幸せを見つけていくというお話。

仕事ばかりの人生とは別の幸せ。本当の幸せとは?
疲れたあなたに心の潤いをもたらす。
ちょっと立ち止まって周りを見渡してみては。
ひとやすみ、ひとやすみ。
過去より何度も問いかけられてきた永遠の命題だと思います。

ちょっと前の癒し系(私は嫌い)ブームの際にそこかしこに氾濫したものの、
そうそう扱いやすいものではなく、下手な紡ぎ手にかかってしまうと、
結局嫌なことから逃げているだけだったり、
あるいは小さなことを必要以上に盛り上げるあまりに引いてしまうので
そんなところを「負け犬の遠吠え」などとまたまた
余計なコマッタチャンにつけ入られるのでした。

「ここに幸あり」においてもヴァンサンが改めて気づく幸せも、
友達とワインを飲んだり騒いだりと極々普通のもの。
ただ、監督はそれなりのものはそれなりにしか扱いません。
誇張したってしかたありませんもの。
ほんのちょっと嬉しいものは、ほんのちょっとですもの。
だから実に沢山の話が2時間の中に詰め込まれています。
どれもちょっとだけ可笑しいものだから、
まるで和む話の短編集のような感覚です。

ここで語られる幸せは我々がごく普通に日常でやっているもの。
だから気づければ仕事をやりながらでも楽しめるはずなのです。
わざわざ仕事を放り出したりクビにされなくとも。
お金や仕事に踊らされず、仕事でお金を得て好きなことに費やす、
自分の中で充実した状態が保てれば理想ではないか。
それは人それぞれ違うポイントがあるでしょう。

最後に藤村俊二さんがこんなシャレたコメントを寄せています。
「個々に幸あり」。
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