愛だよ、愛 ― 2008年09月02日 23時08分52秒

ビートルズの曲33曲に基づいて制作された
ミュージカル映画「アクロス・ザ・ユニバース」について。
<物語>
イギリスの港で働く労働者の若者ジュードは
顔も知らぬ父に会いにアメリカへ旅立つ。
大学で働いているという話にもしやという期待を抱いていたが
実際には父も同じ労働者だった。
とくに感動の再会とも言えず父と別れたジュードは、
街でマックスという気の会う若者と出会いそのまま滞在することに。
NYに移り、ミュージシャンのセディのルームメイトになった二人は
ベトナム戦争とヒッピーの文化に呑み込まれていく。
マックスの妹のルーシーにジュードは恋をするが、
激化するベトナム戦争と共産活動の活発化が
仲間達にヒビを入れていくのであった。
少し前に、若松孝二監督作品「実録・連合赤軍/あさま山荘への道程」
という映画を観ていました。内容は題名が全て語っています。
その映画で感じたのは、「ああ、私が感覚として理解できるのは、
この時代が終わった後からなんだ」ということでした。
だからビートルズの歌を使用したミュージカルで
その60年代後半ぐらいを描いていると言われても、
あまりピンとくるものはありませんでした。
もちろん、折々でジョン・レノンの偉大さには触れているものの、
既に神格化された存在である故に壁を感じ、
それは無宗教者に聖書の素晴らしさを説くようなものでした。
ですが、予告編を何回か観ているとだんだん気になり、やはり鑑賞。
これが想像以上の衝撃でございました。
私はビートルズの曲を全て聴いているわけではないけれども、
本来の意味からはかなり意訳されていることぐらい分かりますが、
その意訳がこの曲をこう使うか!という快感に膝を打つ面白さ。
中でもジョンがヨーコに贈った曲「I Want You」を
ベトナム兵士徴兵検査に持ってくるあたりは、
ジョンの反戦活動も重なって本当にそう意図されたのではと思えます。
「Let it Be」はストレートに現在のイメージで使用されているものの、
戦いで命を落とした兵士の葬儀と、
暴動の犠牲となった黒人の少年の葬儀をクロスさせるあたりには、
全ての人の上に降り注ぐビートルズの歌、という敬意が見えます。
有名な歌をただ歌って踊っていれば良いだけの作品ではありません。
浜辺で1人、「Gril」を歌うジュードの回想から始まり、
奔流のごとく、ビートルズの洪水に身を委ねながら、
物語は共産活動に身を投じていくルーシーに
懐疑的な想いを抱くジュードとのすれ違いへ至り、
心を病んだベトナム帰還兵となったマックス、
メジャーデビューと引き換えに魂のパートナーを失ったセディ達、
それぞれの想いが引き裂かれ、
ジュードは失意の帰郷を果たしオープニングへと回帰します。
しかし、この物語の素晴らしさはそこから始まるのです。
ルーシーへの想いを確かめるジュードに贈られる歌、
それこそが名曲「Hey Jude」!
迂闊なことに、ジュードの名がそこに由来することにそこで気づく。
再び、NYに戻るジュード。着いたところはセディのビルの屋上ライブ。
そこにはやっと本来の自分を取り戻した、仲間達がいる。
でもルーシーの姿だけが見えない。
彼女はジュードへの振る舞いに罪悪感を感じて、
すぐ近くまで来ているのに躊躇している。
すると、ジュードは歌いだす。
ルーシーへのありったけの思いで歌うその曲「愛こそすべて」!
「愛こそすべて」。原題「All You Need Is Love」。
思えばビートルズの歌でなければこんな題名など
陳腐過ぎて聞いていられるわけがありません。
しかし、これこそ「愛こそすべて」!
ビル屋上で歌うジュードの、向かいのビルから
真直ぐに微笑みかけるルーシーを見つけたその瞬間。
瞳は涙の洪水。
今更ながらに40年も前の曲がここまで時代を超えられることに、
ビートルズの素晴らしさをやっと感じることができた様に思います。
その名曲をイマジネーションを爆発させすぎる独りよがりPV
(いわゆる、ファン以外の人間が蚊帳の外になるPV)ではなく、
時代と、日常と、人物の感情から溢れる、
共感性とメッセージ性の高い画へ構築しています。
文句なしに面白く、そして心揺さぶる作品。
愛も友情も、葛藤も理解も、善悪も、平和への願いもギッシリ。
映画が、映像と演技と物語と音楽がバランスよく一体となったときに
素晴らしい名作となるのだとしたら、
「アクロス・ザ・ユニバース」は間違いなく素晴らしき映画です。
ミュージカル映画「アクロス・ザ・ユニバース」について。
<物語>
イギリスの港で働く労働者の若者ジュードは
顔も知らぬ父に会いにアメリカへ旅立つ。
大学で働いているという話にもしやという期待を抱いていたが
実際には父も同じ労働者だった。
とくに感動の再会とも言えず父と別れたジュードは、
街でマックスという気の会う若者と出会いそのまま滞在することに。
NYに移り、ミュージシャンのセディのルームメイトになった二人は
ベトナム戦争とヒッピーの文化に呑み込まれていく。
マックスの妹のルーシーにジュードは恋をするが、
激化するベトナム戦争と共産活動の活発化が
仲間達にヒビを入れていくのであった。
少し前に、若松孝二監督作品「実録・連合赤軍/あさま山荘への道程」
という映画を観ていました。内容は題名が全て語っています。
その映画で感じたのは、「ああ、私が感覚として理解できるのは、
この時代が終わった後からなんだ」ということでした。
だからビートルズの歌を使用したミュージカルで
その60年代後半ぐらいを描いていると言われても、
あまりピンとくるものはありませんでした。
もちろん、折々でジョン・レノンの偉大さには触れているものの、
既に神格化された存在である故に壁を感じ、
それは無宗教者に聖書の素晴らしさを説くようなものでした。
ですが、予告編を何回か観ているとだんだん気になり、やはり鑑賞。
これが想像以上の衝撃でございました。
私はビートルズの曲を全て聴いているわけではないけれども、
本来の意味からはかなり意訳されていることぐらい分かりますが、
その意訳がこの曲をこう使うか!という快感に膝を打つ面白さ。
中でもジョンがヨーコに贈った曲「I Want You」を
ベトナム兵士徴兵検査に持ってくるあたりは、
ジョンの反戦活動も重なって本当にそう意図されたのではと思えます。
「Let it Be」はストレートに現在のイメージで使用されているものの、
戦いで命を落とした兵士の葬儀と、
暴動の犠牲となった黒人の少年の葬儀をクロスさせるあたりには、
全ての人の上に降り注ぐビートルズの歌、という敬意が見えます。
有名な歌をただ歌って踊っていれば良いだけの作品ではありません。
浜辺で1人、「Gril」を歌うジュードの回想から始まり、
奔流のごとく、ビートルズの洪水に身を委ねながら、
物語は共産活動に身を投じていくルーシーに
懐疑的な想いを抱くジュードとのすれ違いへ至り、
心を病んだベトナム帰還兵となったマックス、
メジャーデビューと引き換えに魂のパートナーを失ったセディ達、
それぞれの想いが引き裂かれ、
ジュードは失意の帰郷を果たしオープニングへと回帰します。
しかし、この物語の素晴らしさはそこから始まるのです。
ルーシーへの想いを確かめるジュードに贈られる歌、
それこそが名曲「Hey Jude」!
迂闊なことに、ジュードの名がそこに由来することにそこで気づく。
再び、NYに戻るジュード。着いたところはセディのビルの屋上ライブ。
そこにはやっと本来の自分を取り戻した、仲間達がいる。
でもルーシーの姿だけが見えない。
彼女はジュードへの振る舞いに罪悪感を感じて、
すぐ近くまで来ているのに躊躇している。
すると、ジュードは歌いだす。
ルーシーへのありったけの思いで歌うその曲「愛こそすべて」!
「愛こそすべて」。原題「All You Need Is Love」。
思えばビートルズの歌でなければこんな題名など
陳腐過ぎて聞いていられるわけがありません。
しかし、これこそ「愛こそすべて」!
ビル屋上で歌うジュードの、向かいのビルから
真直ぐに微笑みかけるルーシーを見つけたその瞬間。
瞳は涙の洪水。
今更ながらに40年も前の曲がここまで時代を超えられることに、
ビートルズの素晴らしさをやっと感じることができた様に思います。
その名曲をイマジネーションを爆発させすぎる独りよがりPV
(いわゆる、ファン以外の人間が蚊帳の外になるPV)ではなく、
時代と、日常と、人物の感情から溢れる、
共感性とメッセージ性の高い画へ構築しています。
文句なしに面白く、そして心揺さぶる作品。
愛も友情も、葛藤も理解も、善悪も、平和への願いもギッシリ。
映画が、映像と演技と物語と音楽がバランスよく一体となったときに
素晴らしい名作となるのだとしたら、
「アクロス・ザ・ユニバース」は間違いなく素晴らしき映画です。
映画の珍事 ― 2008年09月03日 22時36分32秒
うとうとと眠りの世界と現世を行ったりきたりしながら
DVDを鑑賞していると向こう側に意識が飛んだ時に、
たまにDVDの観ていない部分を前後から考えて
自分の脳が勝手に補完することがあります。
ジョエル&イーサン・コーエン兄弟の「バートンフィンク」を
例によってまた寝ながら鑑賞していたら一部が
アフリカ系黒人女性がナタで肉をバンバン裁断してと思ったら、
おもむろに開けた衣装ダンスの中に赤ん坊の死体が
ぎっしりと入っていたなどというシーンで補完されており、
流石にこれはかけ離れすぎているだろう思い鑑賞し直し。
ちなみに「バートンフィンク」は脚本家の主人公が、
街で孤独に悩みながら執筆が遅々として進まない中、
奇妙な隣人と知り合ったことからある事件にまきこまれ・・・
という話。血は出るものの、少なくとも前述のような
スラッシャ映画ではありません。
こんな様に、映画を鑑賞しまくっていますと、
様々な珍事に遭遇することがあります。
例えば皆さんは劇場に行って上映が中断したことが何回ありますか?
私は仙台セントラル劇場(現・桜井薬局セントラルホール)に
一年に10回ほどいきますが、去年は5回ほど中断しました。
全て映写機のトラブルでいきなり画面が真っ暗または真っ白に。
そのつど「はい少々お待ちくださーい」等と5分ほど待たされます。
仙台フォーラムでも、「ブラッドダイアモンド」では
「ニューシネマ・パラダイス」のフィルムが焼けるシーンの如く、
画面の色がセピア色に光が溢れたと思ったらストップ。
「ヒトラー/最後の12日間」では画面が上下に延びたような、
昔のワイド非対応テレビでDVDを鑑賞したような状態に。
フォーラム&チネ・ラヴィータではこのような場合、
招待券を渡すなど、何らかのお返しをしていることがあります。
(必ずかは分かりません、念のため)
別にそんな気を使わなくてもいいですよ、と思いますが。
上映中断関連だと、シネコンのような高額設備ではないと思うかも。
でもご安心を。ちゃんと(?)トラブルは起こります。
「スチームボーイ」だったと思うけれども、
本編が始まったにも関わらず、場内の照明が暗くならない!
また、生き物ネタだと、鑑賞中に天井からいきなり
蜘蛛が降りてきて、スクリーンの照明に照らされたりとか。
寝ている客は珍しくありませんが、
あまりにいびきの煩すぎる客に慌てて係員が注意を促したりとか。
でも一年に数回しか映画を観ない人が遭遇すると珍しい事件でも、
年に150回以上劇場に足を運んでいると「ああ、またか」と
別に騒ぐこともなくなり、5分もすれば大抵のことは解決します。
それでクレームを言っている人を見たことはありませんが、
少なくとも私はそれさえも話のネタとして楽しく感じています。
ロバート・ロドリゲスの「プラネット・テラーinグラインドハウス」でも
触れているように、昔は上映中断はおろか、
アメリカではフィルムの一部が欠落しているにも関わらず、
堂々と上映を行っていることがあったようです。
それに比べればなんとかわいいものよ。
劇場のもぎりにも「どっから声出ているんだ?」という娘もいますし、
最初はたどたどしかったけれども応援したくなるような子もいます。
そんな勝手に名物指定をした方々もまた映画に花を添えます。
映画そのものだけではなく、映画を観るという行為そのものも
愛すべきものである様に自分の中で変わってきています。
作品の面白いつまらないも大事ですが、さて。
そんな9月の鑑賞スケジュールは
「R246 STORY」「あの日の指輪を待つ君へ」
「落語娘」「おくりびと」「インビジブル・ターゲット」「イースタン・プロミス」
「世界で一番美しい夜」「アキレスと亀」「次郎長三国志」
「ウォンテッド」「闇の子供たち」「この自由な世界で」
「アイアンマン」「イキガミ」「花は散れども」「帰らない日々」
「チェブラーシカ」「落下の王国」「シティ・オブ・メン」
そして特集上映「香港レジェンドシネマ」。
なかでも「イースタン・プロミス」はアカデミー賞レースの頃から
一番期待していていまかいまかと待ち望んだ作品。
9月も熱い月となりそうです。
DVDを鑑賞していると向こう側に意識が飛んだ時に、
たまにDVDの観ていない部分を前後から考えて
自分の脳が勝手に補完することがあります。
ジョエル&イーサン・コーエン兄弟の「バートンフィンク」を
例によってまた寝ながら鑑賞していたら一部が
アフリカ系黒人女性がナタで肉をバンバン裁断してと思ったら、
おもむろに開けた衣装ダンスの中に赤ん坊の死体が
ぎっしりと入っていたなどというシーンで補完されており、
流石にこれはかけ離れすぎているだろう思い鑑賞し直し。
ちなみに「バートンフィンク」は脚本家の主人公が、
街で孤独に悩みながら執筆が遅々として進まない中、
奇妙な隣人と知り合ったことからある事件にまきこまれ・・・
という話。血は出るものの、少なくとも前述のような
スラッシャ映画ではありません。
こんな様に、映画を鑑賞しまくっていますと、
様々な珍事に遭遇することがあります。
例えば皆さんは劇場に行って上映が中断したことが何回ありますか?
私は仙台セントラル劇場(現・桜井薬局セントラルホール)に
一年に10回ほどいきますが、去年は5回ほど中断しました。
全て映写機のトラブルでいきなり画面が真っ暗または真っ白に。
そのつど「はい少々お待ちくださーい」等と5分ほど待たされます。
仙台フォーラムでも、「ブラッドダイアモンド」では
「ニューシネマ・パラダイス」のフィルムが焼けるシーンの如く、
画面の色がセピア色に光が溢れたと思ったらストップ。
「ヒトラー/最後の12日間」では画面が上下に延びたような、
昔のワイド非対応テレビでDVDを鑑賞したような状態に。
フォーラム&チネ・ラヴィータではこのような場合、
招待券を渡すなど、何らかのお返しをしていることがあります。
(必ずかは分かりません、念のため)
別にそんな気を使わなくてもいいですよ、と思いますが。
上映中断関連だと、シネコンのような高額設備ではないと思うかも。
でもご安心を。ちゃんと(?)トラブルは起こります。
「スチームボーイ」だったと思うけれども、
本編が始まったにも関わらず、場内の照明が暗くならない!
また、生き物ネタだと、鑑賞中に天井からいきなり
蜘蛛が降りてきて、スクリーンの照明に照らされたりとか。
寝ている客は珍しくありませんが、
あまりにいびきの煩すぎる客に慌てて係員が注意を促したりとか。
でも一年に数回しか映画を観ない人が遭遇すると珍しい事件でも、
年に150回以上劇場に足を運んでいると「ああ、またか」と
別に騒ぐこともなくなり、5分もすれば大抵のことは解決します。
それでクレームを言っている人を見たことはありませんが、
少なくとも私はそれさえも話のネタとして楽しく感じています。
ロバート・ロドリゲスの「プラネット・テラーinグラインドハウス」でも
触れているように、昔は上映中断はおろか、
アメリカではフィルムの一部が欠落しているにも関わらず、
堂々と上映を行っていることがあったようです。
それに比べればなんとかわいいものよ。
劇場のもぎりにも「どっから声出ているんだ?」という娘もいますし、
最初はたどたどしかったけれども応援したくなるような子もいます。
そんな勝手に名物指定をした方々もまた映画に花を添えます。
映画そのものだけではなく、映画を観るという行為そのものも
愛すべきものである様に自分の中で変わってきています。
作品の面白いつまらないも大事ですが、さて。
そんな9月の鑑賞スケジュールは
「R246 STORY」「あの日の指輪を待つ君へ」
「落語娘」「おくりびと」「インビジブル・ターゲット」「イースタン・プロミス」
「世界で一番美しい夜」「アキレスと亀」「次郎長三国志」
「ウォンテッド」「闇の子供たち」「この自由な世界で」
「アイアンマン」「イキガミ」「花は散れども」「帰らない日々」
「チェブラーシカ」「落下の王国」「シティ・オブ・メン」
そして特集上映「香港レジェンドシネマ」。
なかでも「イースタン・プロミス」はアカデミー賞レースの頃から
一番期待していていまかいまかと待ち望んだ作品。
9月も熱い月となりそうです。
信念のぶつかり合い ― 2008年09月06日 23時14分07秒

「ラストゲーム/最後の早慶戦」についての話。
<物語>
1943年、激化する太平洋戦争。
軍部、政府により、「野球は敵国のスポーツである」とされ、
六大学野球は廃止、学生の徴兵猶予も停止となり、
早稲田大学野球部の学生達も戦争へ行くこととなった。
しかし、彼らの顧問・飛田穂洲は野球は精神を養うものであり、
何より戦地へ赴かなければならない彼らの
唯一の楽しみを出陣の直前まで続けさせてやりたいと戦っていた。
その時、慶応義塾塾長の小泉信三が飛田を訪ねる。
小泉は出陣する学生達への生きた証として、
最後の早慶戦をやろうと申し出てきたのである。
野球部員も飛田も興奮に湧き立つ。
しかし、戦時下において危険すぎると早大総長は
頑なに許可を出さぬのであった。
皆の想いを背負って立ちふさがる相手に立ち向う。
それが男の専売特許とは言いませんが、
飛田(柄本明)と総長(藤田まこと)の重鎮同士の戦いは、
皺に年輪を刻み込んだ男同士ならではの迫力があります。
これはまごうことなき男のドラマであります。
しかも、野球ドラマでありながら、主役は明らかに球児ではない。
柄本明演じる飛田先生こそが主人公です。
学徒出陣として戦地へ立たねばならない、
早大生達へのせめてもの手向けとして
なんとしてでも早慶戦を実現させたい飛田先生と、
戦時下の不測の事態(例えば空爆の標的にならないために)
を回避するためにあくまで許可をださない総長との戦い。
この総長もただの堅物ではない。
彼には政府からの要注意校として目をつけられている
早大そのものの存続を守らねばならない、
生徒の学び舎を守るという未来を見据えた信念があります。
そこが保身と体裁に呪縛された現在の大人と違うところです。
これは難しい戦いであります。
両者共に、生徒のためという一歩を引けない信念がある。
しかも、善悪二元論での戦いではないところに厳しさがあります。
相手が悪いのならば全力でねじ伏せればいい。
しかし、双方共に相手の言い分を痛いほど理解するがため、
苦渋の決断の中で信念をぶつけ合うのです。
飛躍を恐れずに述べるならば、
それこそが戦争の本来あるべき姿ではないかと思うのです。
各々の国が相手を敵国と定めて
戦略としては相手を貶める教育をするものの、
基本的には国、民族、宗教、あるいは家族や仲間、
そして尊厳を守るための戦いであり、
それは両者の頭の中にあると思います。
なのに相手を駒と認識した戦いが、諸々の私欲が
互いの人間性や内に秘める想いを見えなくしているのでしょう。
先生と総長は正面から相手の顔を見据え、
言葉と言葉、感情と感情でぶつかり合い、
そして心と心を通じ合わせたのです。
戦争も本来は、そのように解決すべきものなのに。
ただ、難点を挙げるならば、この映画の面白さは
上記に述べた「最後の早慶戦を開催するまでの奮闘」であり、
最後の早慶戦そのものではありません。
もちろん、当時を知る方や当事者にとっては、
試合そのものが最高位に位置するでしょう。
しかし、映画の観客が美を感じるのは微妙に違います。
故に、いざ早慶戦が始まるとやや興奮はしぼんでいきます。
「例え圧勝でも控えメンバーを使うのは失礼だ!」と
飛田先生が一喝する場面には武士道精神が感じられるので、
まだみどころであるものの、試合の後に挿入される
学徒出陣のシーン、そして記録映像の戦争のシーン
そこまで来ると月並みになってしまいます。
それがいけないわけではありません。
確かに早慶戦の話なので、最後に試合シーンが無いのは変だ。
戦争で命を散らした若者達のことは伝えなければならない。
だからそのシーンを挿入するのはごく自然です。
しかし、そうしたことは余程圧倒的な力を持ってしなければ
他の類似作品に埋もれて霞んでしまいます。
大事なテーマを持っているからこそこが一線なのです。
私なら、というのはあまりに恐れ多いですが、
早慶戦の試合が始まり、生徒達がグラウンドへ駆け出す、
そこで終了してもよかったと思います。
最後の早慶戦に賭ける想いは十分に描かれていますし、
その後彼らの行く手に、何が起こるかについては
誰もが分かっていることです。
反戦映画であることは最初から明らかです。
最近の日本映画は語りすぎ、説明しすぎと言われますが、
この「ラストゲーム/最後の早慶戦」にのラストにおいても、
その言葉を思い出さずにはいられませんでした。
良い作品であることは違いないのですが。
<物語>
1943年、激化する太平洋戦争。
軍部、政府により、「野球は敵国のスポーツである」とされ、
六大学野球は廃止、学生の徴兵猶予も停止となり、
早稲田大学野球部の学生達も戦争へ行くこととなった。
しかし、彼らの顧問・飛田穂洲は野球は精神を養うものであり、
何より戦地へ赴かなければならない彼らの
唯一の楽しみを出陣の直前まで続けさせてやりたいと戦っていた。
その時、慶応義塾塾長の小泉信三が飛田を訪ねる。
小泉は出陣する学生達への生きた証として、
最後の早慶戦をやろうと申し出てきたのである。
野球部員も飛田も興奮に湧き立つ。
しかし、戦時下において危険すぎると早大総長は
頑なに許可を出さぬのであった。
皆の想いを背負って立ちふさがる相手に立ち向う。
それが男の専売特許とは言いませんが、
飛田(柄本明)と総長(藤田まこと)の重鎮同士の戦いは、
皺に年輪を刻み込んだ男同士ならではの迫力があります。
これはまごうことなき男のドラマであります。
しかも、野球ドラマでありながら、主役は明らかに球児ではない。
柄本明演じる飛田先生こそが主人公です。
学徒出陣として戦地へ立たねばならない、
早大生達へのせめてもの手向けとして
なんとしてでも早慶戦を実現させたい飛田先生と、
戦時下の不測の事態(例えば空爆の標的にならないために)
を回避するためにあくまで許可をださない総長との戦い。
この総長もただの堅物ではない。
彼には政府からの要注意校として目をつけられている
早大そのものの存続を守らねばならない、
生徒の学び舎を守るという未来を見据えた信念があります。
そこが保身と体裁に呪縛された現在の大人と違うところです。
これは難しい戦いであります。
両者共に、生徒のためという一歩を引けない信念がある。
しかも、善悪二元論での戦いではないところに厳しさがあります。
相手が悪いのならば全力でねじ伏せればいい。
しかし、双方共に相手の言い分を痛いほど理解するがため、
苦渋の決断の中で信念をぶつけ合うのです。
飛躍を恐れずに述べるならば、
それこそが戦争の本来あるべき姿ではないかと思うのです。
各々の国が相手を敵国と定めて
戦略としては相手を貶める教育をするものの、
基本的には国、民族、宗教、あるいは家族や仲間、
そして尊厳を守るための戦いであり、
それは両者の頭の中にあると思います。
なのに相手を駒と認識した戦いが、諸々の私欲が
互いの人間性や内に秘める想いを見えなくしているのでしょう。
先生と総長は正面から相手の顔を見据え、
言葉と言葉、感情と感情でぶつかり合い、
そして心と心を通じ合わせたのです。
戦争も本来は、そのように解決すべきものなのに。
ただ、難点を挙げるならば、この映画の面白さは
上記に述べた「最後の早慶戦を開催するまでの奮闘」であり、
最後の早慶戦そのものではありません。
もちろん、当時を知る方や当事者にとっては、
試合そのものが最高位に位置するでしょう。
しかし、映画の観客が美を感じるのは微妙に違います。
故に、いざ早慶戦が始まるとやや興奮はしぼんでいきます。
「例え圧勝でも控えメンバーを使うのは失礼だ!」と
飛田先生が一喝する場面には武士道精神が感じられるので、
まだみどころであるものの、試合の後に挿入される
学徒出陣のシーン、そして記録映像の戦争のシーン
そこまで来ると月並みになってしまいます。
それがいけないわけではありません。
確かに早慶戦の話なので、最後に試合シーンが無いのは変だ。
戦争で命を散らした若者達のことは伝えなければならない。
だからそのシーンを挿入するのはごく自然です。
しかし、そうしたことは余程圧倒的な力を持ってしなければ
他の類似作品に埋もれて霞んでしまいます。
大事なテーマを持っているからこそこが一線なのです。
私なら、というのはあまりに恐れ多いですが、
早慶戦の試合が始まり、生徒達がグラウンドへ駆け出す、
そこで終了してもよかったと思います。
最後の早慶戦に賭ける想いは十分に描かれていますし、
その後彼らの行く手に、何が起こるかについては
誰もが分かっていることです。
反戦映画であることは最初から明らかです。
最近の日本映画は語りすぎ、説明しすぎと言われますが、
この「ラストゲーム/最後の早慶戦」にのラストにおいても、
その言葉を思い出さずにはいられませんでした。
良い作品であることは違いないのですが。
最近のコメント