11月5日の気仙沼 ― 2011年11月05日 23時51分34秒
仙台を朝早く発ち、三陸自動車道に乗り込み、ひたすら北上。
いつもの石巻河南ICを通過し、桃生津山ICで降ります。
国道45号線にアクセスし、南三陸の海岸沿いをまだまだ北上します。
目指すは宮城県最北の市、気仙沼。
いつもの石巻河南ICを通過し、桃生津山ICで降ります。
国道45号線にアクセスし、南三陸の海岸沿いをまだまだ北上します。
目指すは宮城県最北の市、気仙沼。
気仙沼に行くことは震災以降、目標のひとつでした。
僕は幼少の時に腎臓病ネフローゼを患い、今日に至るまで付合っていますが、
その病気で最初に仙台でお世話になった小児科の先生が、
今は郷里の気仙沼でお父さんの診療所を継いでいるのです。
その病気で最初に仙台でお世話になった小児科の先生が、
今は郷里の気仙沼でお父さんの診療所を継いでいるのです。
一昨年、その病気がまた悪さをして入院したことはブログでも書きましたが、
その際にお世話になった先生とはまた別に、今こうして元気でいられるのは、
間違いなく、その小児科の先生のおかげでした。
あの日、気仙沼の映像を見て、診療所の住所を確かめると、
海からはたった1本だけなかに入ったあたりにありました。
毎日、新聞上で亡くなった方の名前を、今日は無いと確認していました。
しばらくし、一般の方が撮影した映像をYouTubeで見て、
そこに映り込んだ診療所の状況を見て暗い気分になり、
しかし、避難所の名簿に名前を見つけて少しだけ安堵もしていました。
何分、片道で3時間程かかる距離、しかもまともな道があるか見当もつかず、
ガソリン不足の折もありましたので、長い間祈るしかありませんでした。
その後も、多忙という理由に甘んじていた自分を恥じなければなりません。
そして近日、やっと行くことができました。
45号線で気仙沼に入り、間もなく岩手県というトンネル前まで。
この辺りは大型店も営業しており、車の行き来も多く、
一見、生活の風景が戻っているように見えますが、
車から降りると僅かな埃っぽさを感じるとともに、
半年前に多賀城や石巻で感じた空気と同じものが感じられます。
そんな、以前の場所から少し離れたところで先生の診療所は再開。
小さな診療所でしたがその日は子供達が多く来ており、
昔と変わることなく子供達のために懸命でいるようでした。
やっと訪ねると、品の良さが漂う奥様のご案内で、
診療所の奥から先生が出てきました。
診療所の奥から先生が出てきました。
そこから先は、安堵と喜びのあまり言葉になりません。
固い握手をすると話し終わるまで手が離せませんでした。
自然に涙が滲み、言わなくても良いようなことを言ってもいました。
固い握手をすると話し終わるまで手が離せませんでした。
自然に涙が滲み、言わなくても良いようなことを言ってもいました。
診療中のため僅か10分も話せませんでしたが、
それは半年にも1年にも勝る数分間だったと思います。
それは半年にも1年にも勝る数分間だったと思います。
これからも連絡を取っていこうと心に誓い、
これまでにないくらい深く頭を下げて別れた後、
元の診療所があった場所の近くへ行きました。
そこは、同じ街でありながら先ほどの風景が別世界の様に思えました。
未だに舗装された道路さえない区画。放置されたまま錆付く破壊された車。
毎日この光景を見続ける交通整理や復旧作業の人達の心中を思う。
荷を積み降しする魚市場の人達に頭を下げなくてはなりません。
そして、昨夜のテレビの話題を楽しむ高校生を頼もしく思う。
毎日この光景を見続ける交通整理や復旧作業の人達の心中を思う。
荷を積み降しする魚市場の人達に頭を下げなくてはなりません。
そして、昨夜のテレビの話題を楽しむ高校生を頼もしく思う。
あの日から10ヶ月。この街が本当に再生するのは何年後なのか。
何かできるのかは分かりませんが、そう考えなくてはと思う。
先生と念願の再会を果たせた喜びを抱きつつ、複雑な思いで帰りました。
何かできるのかは分かりませんが、そう考えなくてはと思う。
先生と念願の再会を果たせた喜びを抱きつつ、複雑な思いで帰りました。
最近のコメント