ぐるりとまわれば世がまわる ― 2008年09月15日 23時35分07秒

数日前に毎日更新すると言いながら、眠りに落ちてしまいました。
このため2日分の更新を致します。
そのぐらいならなんとかなるんですけどね。
2連休でしたが、やっぱりシネマ梯子と録画消化です。
まずは「ぐるりのこと。」を鑑賞してきました。
<物語>
飄々と生きるカナオとルールをきちんと決める翔子の若夫婦。
翔子のお腹には待望の赤ちゃんができ、
画が好きだったカナオは法廷画家の職に就くこととなる。
一見正反対の二人だがなんとか日々上手く過ごしている、
ように見えたが、赤ちゃんが亡くなり、翔子は鬱になる。
仕事、人間関係、夫婦の仲、それらが歪みながらも、
二人はゆっくりと乗り越えていく-。
全体の流れは、普通の夫婦の奥さんが徐々に鬱になっていき、
夫が支えながら鬱からまた徐々に徐々に回復していく物語。
とはいえ、構成は1990年代初めから2000年代初までの期間を、
数ヶ月おきに断片的に切り取っていきます。
翔子はもともとキチキチとした性格で夜の営みまで
週3回と決めてカレンダーに「X」を付けておく人。
一方でカナオはそれでは儀式的でつまらないと乗り気にはなれない。
キチキチした人ほど鬱病にかかりやすいかは分かりませんが、
翔子が鬱になるきっかけは説明はされません。
ただ、仕事上のトラブルがあり、自分の赤ん坊の死があり、
また、無神経すぎる兄夫婦の一挙手一投足が蓄積したのが要因か。
あるいは、やはり飄々として一向に思い通りにならないカナオに
苛々したのか、なんとなくの想像はできます。
そもそも鬱病は自分も周囲も気づきにくいうちに芽が出て
気づいたときには蔦がびっしり絡まり身動きできないどころか
身の置き所もなくなっています。
今思えばということが自他共にあるのでなんとなく分かります。
周囲に言いたくても、言葉すら見つからず意思の表明ができない。
そこのあたりの苦しみを木村多江が絶妙な加減で演じています。
夫婦の苦闘は巨大な感情のウェーブを交えることなく、
また、絶望のどん底を這い回るような暗黒を見せるでもなく、
じっと静かに雲が晴れるのを待つように描かれます。
それでも人前では愛想笑いで何事も無いように振る舞いながら。
自分の気分がマイナスを向いているときには何でも鬱陶しくなる。
書店で働く翔子は著名人のサイン会の受付係となる。
熱心なファンの声も雑音にしか聞こえず、
ゲストと子供との温かい触れ合いすらも偽善的に見えてしまう。
食事会も空虚に流し、近所のバイクの音に舌打する。
ついには絶叫し錯乱してしまう彼女が、心療内科かカウンセリングの
先生の紹介かで茶道を始めたことが心に光明を射したようです。
そこからはBGMも軽やかに、また、翔子もお茶の先生より
天井画の制作を頼まれ、それらに描かれる花々のように
色彩を血色を取戻していきます。
苛々することは世の中に多すぎる、それでも一つ一つ乗り越えていく。
カナオが法廷画家として描くこととなる被告人達には、
90年代の大事件が続々登場し、役名を変えているものの、
明らかにあの事件の被告をモデルとした人物達が登場します。
それらは極論を言えば乗り越えなければならないものを
最悪の形で通過した人達というイメージなのかもしれません。
リリー・フランキーはほとんど地のままの様。
寺島進・安藤玉恵の兄夫婦はぶん殴りたくなるほどうざったい。
柄本明の眼力と沈黙の間も多くを語ってくれます。
曲者達が浮き上がることなくその世界の住人であり続ける、
それだけに怒涛の様な衝撃はないものの、気持ちがいい。
完成した天井画を、仰向けに寝転んで日向ぼっこしている様に。
このため2日分の更新を致します。
そのぐらいならなんとかなるんですけどね。
2連休でしたが、やっぱりシネマ梯子と録画消化です。
まずは「ぐるりのこと。」を鑑賞してきました。
<物語>
飄々と生きるカナオとルールをきちんと決める翔子の若夫婦。
翔子のお腹には待望の赤ちゃんができ、
画が好きだったカナオは法廷画家の職に就くこととなる。
一見正反対の二人だがなんとか日々上手く過ごしている、
ように見えたが、赤ちゃんが亡くなり、翔子は鬱になる。
仕事、人間関係、夫婦の仲、それらが歪みながらも、
二人はゆっくりと乗り越えていく-。
全体の流れは、普通の夫婦の奥さんが徐々に鬱になっていき、
夫が支えながら鬱からまた徐々に徐々に回復していく物語。
とはいえ、構成は1990年代初めから2000年代初までの期間を、
数ヶ月おきに断片的に切り取っていきます。
翔子はもともとキチキチとした性格で夜の営みまで
週3回と決めてカレンダーに「X」を付けておく人。
一方でカナオはそれでは儀式的でつまらないと乗り気にはなれない。
キチキチした人ほど鬱病にかかりやすいかは分かりませんが、
翔子が鬱になるきっかけは説明はされません。
ただ、仕事上のトラブルがあり、自分の赤ん坊の死があり、
また、無神経すぎる兄夫婦の一挙手一投足が蓄積したのが要因か。
あるいは、やはり飄々として一向に思い通りにならないカナオに
苛々したのか、なんとなくの想像はできます。
そもそも鬱病は自分も周囲も気づきにくいうちに芽が出て
気づいたときには蔦がびっしり絡まり身動きできないどころか
身の置き所もなくなっています。
今思えばということが自他共にあるのでなんとなく分かります。
周囲に言いたくても、言葉すら見つからず意思の表明ができない。
そこのあたりの苦しみを木村多江が絶妙な加減で演じています。
夫婦の苦闘は巨大な感情のウェーブを交えることなく、
また、絶望のどん底を這い回るような暗黒を見せるでもなく、
じっと静かに雲が晴れるのを待つように描かれます。
それでも人前では愛想笑いで何事も無いように振る舞いながら。
自分の気分がマイナスを向いているときには何でも鬱陶しくなる。
書店で働く翔子は著名人のサイン会の受付係となる。
熱心なファンの声も雑音にしか聞こえず、
ゲストと子供との温かい触れ合いすらも偽善的に見えてしまう。
食事会も空虚に流し、近所のバイクの音に舌打する。
ついには絶叫し錯乱してしまう彼女が、心療内科かカウンセリングの
先生の紹介かで茶道を始めたことが心に光明を射したようです。
そこからはBGMも軽やかに、また、翔子もお茶の先生より
天井画の制作を頼まれ、それらに描かれる花々のように
色彩を血色を取戻していきます。
苛々することは世の中に多すぎる、それでも一つ一つ乗り越えていく。
カナオが法廷画家として描くこととなる被告人達には、
90年代の大事件が続々登場し、役名を変えているものの、
明らかにあの事件の被告をモデルとした人物達が登場します。
それらは極論を言えば乗り越えなければならないものを
最悪の形で通過した人達というイメージなのかもしれません。
リリー・フランキーはほとんど地のままの様。
寺島進・安藤玉恵の兄夫婦はぶん殴りたくなるほどうざったい。
柄本明の眼力と沈黙の間も多くを語ってくれます。
曲者達が浮き上がることなくその世界の住人であり続ける、
それだけに怒涛の様な衝撃はないものの、気持ちがいい。
完成した天井画を、仰向けに寝転んで日向ぼっこしている様に。
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