信念のぶつかり合い2008年09月06日 23時14分07秒

「ラストゲーム/最後の早慶戦」についての話。

<物語>
1943年、激化する太平洋戦争。
軍部、政府により、「野球は敵国のスポーツである」とされ、
六大学野球は廃止、学生の徴兵猶予も停止となり、
早稲田大学野球部の学生達も戦争へ行くこととなった。
しかし、彼らの顧問・飛田穂洲は野球は精神を養うものであり、
何より戦地へ赴かなければならない彼らの
唯一の楽しみを出陣の直前まで続けさせてやりたいと戦っていた。
その時、慶応義塾塾長の小泉信三が飛田を訪ねる。
小泉は出陣する学生達への生きた証として、
最後の早慶戦をやろうと申し出てきたのである。
野球部員も飛田も興奮に湧き立つ。
しかし、戦時下において危険すぎると早大総長は
頑なに許可を出さぬのであった。


皆の想いを背負って立ちふさがる相手に立ち向う。
それが男の専売特許とは言いませんが、
飛田(柄本明)と総長(藤田まこと)の重鎮同士の戦いは、
皺に年輪を刻み込んだ男同士ならではの迫力があります。

これはまごうことなき男のドラマであります。
しかも、野球ドラマでありながら、主役は明らかに球児ではない。
柄本明演じる飛田先生こそが主人公です。

学徒出陣として戦地へ立たねばならない、
早大生達へのせめてもの手向けとして
なんとしてでも早慶戦を実現させたい飛田先生と、
戦時下の不測の事態(例えば空爆の標的にならないために)
を回避するためにあくまで許可をださない総長との戦い。

この総長もただの堅物ではない。
彼には政府からの要注意校として目をつけられている
早大そのものの存続を守らねばならない、
生徒の学び舎を守るという未来を見据えた信念があります。
そこが保身と体裁に呪縛された現在の大人と違うところです。

これは難しい戦いであります。
両者共に、生徒のためという一歩を引けない信念がある。
しかも、善悪二元論での戦いではないところに厳しさがあります。
相手が悪いのならば全力でねじ伏せればいい。
しかし、双方共に相手の言い分を痛いほど理解するがため、
苦渋の決断の中で信念をぶつけ合うのです。


飛躍を恐れずに述べるならば、
それこそが戦争の本来あるべき姿ではないかと思うのです。

各々の国が相手を敵国と定めて
戦略としては相手を貶める教育をするものの、
基本的には国、民族、宗教、あるいは家族や仲間、
そして尊厳を守るための戦いであり、
それは両者の頭の中にあると思います。
なのに相手を駒と認識した戦いが、諸々の私欲が
互いの人間性や内に秘める想いを見えなくしているのでしょう。

先生と総長は正面から相手の顔を見据え、
言葉と言葉、感情と感情でぶつかり合い、
そして心と心を通じ合わせたのです。
戦争も本来は、そのように解決すべきものなのに。


ただ、難点を挙げるならば、この映画の面白さは
上記に述べた「最後の早慶戦を開催するまでの奮闘」であり、
最後の早慶戦そのものではありません。
もちろん、当時を知る方や当事者にとっては、
試合そのものが最高位に位置するでしょう。
しかし、映画の観客が美を感じるのは微妙に違います。

故に、いざ早慶戦が始まるとやや興奮はしぼんでいきます。
「例え圧勝でも控えメンバーを使うのは失礼だ!」と
飛田先生が一喝する場面には武士道精神が感じられるので、
まだみどころであるものの、試合の後に挿入される
学徒出陣のシーン、そして記録映像の戦争のシーン
そこまで来ると月並みになってしまいます。

それがいけないわけではありません。
確かに早慶戦の話なので、最後に試合シーンが無いのは変だ。
戦争で命を散らした若者達のことは伝えなければならない。
だからそのシーンを挿入するのはごく自然です。

しかし、そうしたことは余程圧倒的な力を持ってしなければ
他の類似作品に埋もれて霞んでしまいます。
大事なテーマを持っているからこそこが一線なのです。
私なら、というのはあまりに恐れ多いですが、
早慶戦の試合が始まり、生徒達がグラウンドへ駆け出す、
そこで終了してもよかったと思います。
最後の早慶戦に賭ける想いは十分に描かれていますし、
その後彼らの行く手に、何が起こるかについては
誰もが分かっていることです。
反戦映画であることは最初から明らかです。

最近の日本映画は語りすぎ、説明しすぎと言われますが、
この「ラストゲーム/最後の早慶戦」にのラストにおいても、
その言葉を思い出さずにはいられませんでした。
良い作品であることは違いないのですが。
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