日本人の美徳 ― 2006年07月17日 23時08分02秒
休みあらば映画探訪へ。
邦画「佐賀のがばいばあちゃん」ですよ。
原作は漫才のべテランB&Bの島田洋七の自伝小説。
昭和30年代、本人が実際に少年時代に佐賀のお祖母ちゃんの家に
預けられたときの体験がもとになっています。
「がばい」は佐賀の言葉で「すごい」という意味だそうです。
正直なところ、タレント本の類はあまり好きではなく
洋七さん自身もそれほど好きでもないので(失礼)
鑑賞前は気を抜いていましたよ。
良かったな・・・・これは良いよ。
お祖母ちゃんも良い人ですが、周りを取り巻く町の人達、
わざと豆腐を崩してくれる豆腐屋さん:緒方拳
(崩れた豆腐は半額で売ってくれるのであります。)
担任教師をはじめとして、生徒一人一人面倒を見てくれる先生達、
その親切や愛情がさりげなく、密かに奥ゆかしい。
昔の日本人の美徳を見たような気がします。
ばあちゃんの奇想天外な行動と名言の数々が耳に残ります。
野菜や市場から裏の川に流れるものを収穫(?)
落ちている鉄くずは全て拾って売る。
「歴史が苦手なら、過去にはこだわらんと言え」
「腹が減ったのは気のせいや」
「暗い話は夜にするな。どんな辛い話も昼間話せば大したことない。」
一つくらいは明日から意識しようと思うものがあるはず。
終始おかしく笑えて感動場面でもクスッと笑えて、
でも最後に心に残り考えるものがある、
しばらく見なかった日本の良き人情喜劇ではないでしょうか。
ふと、この作品に出演したあの少年たちは何か考えただろうかと思います。
今では見られない純粋に競う事が楽しい運動会や、
1台のTVを囲んで大勢集まって熱狂する光景。
それが映画が終了してもどこかで存在したら良いなと考えるのでした。
邦画「佐賀のがばいばあちゃん」ですよ。
原作は漫才のべテランB&Bの島田洋七の自伝小説。
昭和30年代、本人が実際に少年時代に佐賀のお祖母ちゃんの家に
預けられたときの体験がもとになっています。
「がばい」は佐賀の言葉で「すごい」という意味だそうです。
正直なところ、タレント本の類はあまり好きではなく
洋七さん自身もそれほど好きでもないので(失礼)
鑑賞前は気を抜いていましたよ。
良かったな・・・・これは良いよ。
お祖母ちゃんも良い人ですが、周りを取り巻く町の人達、
わざと豆腐を崩してくれる豆腐屋さん:緒方拳
(崩れた豆腐は半額で売ってくれるのであります。)
担任教師をはじめとして、生徒一人一人面倒を見てくれる先生達、
その親切や愛情がさりげなく、密かに奥ゆかしい。
昔の日本人の美徳を見たような気がします。
ばあちゃんの奇想天外な行動と名言の数々が耳に残ります。
野菜や市場から裏の川に流れるものを収穫(?)
落ちている鉄くずは全て拾って売る。
「歴史が苦手なら、過去にはこだわらんと言え」
「腹が減ったのは気のせいや」
「暗い話は夜にするな。どんな辛い話も昼間話せば大したことない。」
一つくらいは明日から意識しようと思うものがあるはず。
終始おかしく笑えて感動場面でもクスッと笑えて、
でも最後に心に残り考えるものがある、
しばらく見なかった日本の良き人情喜劇ではないでしょうか。
ふと、この作品に出演したあの少年たちは何か考えただろうかと思います。
今では見られない純粋に競う事が楽しい運動会や、
1台のTVを囲んで大勢集まって熱狂する光景。
それが映画が終了してもどこかで存在したら良いなと考えるのでした。
男達の香港 ― 2006年07月24日 01時09分12秒
やっぱり延び延び更新となってしまいました。
最近はずっと夜は午前1時帰りなのでねむねむです。
もっと午前中の気力を奮い立たせねば。
と言うわけで今日は休日でした。
今回の映画は、香港ノワール
「ディバージェンス 運命の交差点」です。
マネーロンダリング事件の証人を殺し屋コークに消された
刑事シュンは、事件の容疑者イウに詰め寄るが、
顧問弁護士のトウに追い払われてしまう。
シュンはトウに張り付くが、彼の妻エイミーを見て驚愕する。
彼女は10年前に失踪したシュンの恋人フォンに生き写しであった。
事件と恋人の幻影を追うシュンの前に再びコークが現れ、
シュン、トウ、コーク三人の運命が交錯していく。
行方不明の恋人を敵の妻に重ねるシュン、
家族と生活を守るためにあえて悪徳弁護士となるトウ、
どこか殺し屋に徹しきれないコーク。
三者三様、背中に重いものを背負っているように感じます。
殺し屋と悪徳弁護士にはそれぞれの最期がありますが、
シュンの結末も希望に満ちた笑顔に反して、
もう彼は決して真実を知ることのないという哀しみを感じます。
号泣ではなくしっとりと見せるところが、韓流と華流の違いでしょうか。
シュンなどはウジウジ女々しい野郎と思いでしょうが、
クセやアクが無い、男からみればなんとなくも好感を持ちますよ。
アーロン・クオックという方、ややふっくらしたアンディ・ラウ
という印象ですが何か厚みを感じます。
中心となるはかっこいい男達のドラマでありますが、
エイミー&フォンを演じるは私が密かにファンである、アンジェリカ・リー。
「the EYE」のヒロインを演じていましたが、儚げな眼差しが素敵。
もっとスクリーンで見たい方ですが本業は歌手らしいです。
でも、期待の香港ノワールとは言え、
「インファナル・アフェア」ほどの衝撃はなかなかないですな~。
あれは神が降りていたのかもしれません。
最近はずっと夜は午前1時帰りなのでねむねむです。
もっと午前中の気力を奮い立たせねば。
と言うわけで今日は休日でした。
今回の映画は、香港ノワール
「ディバージェンス 運命の交差点」です。
マネーロンダリング事件の証人を殺し屋コークに消された
刑事シュンは、事件の容疑者イウに詰め寄るが、
顧問弁護士のトウに追い払われてしまう。
シュンはトウに張り付くが、彼の妻エイミーを見て驚愕する。
彼女は10年前に失踪したシュンの恋人フォンに生き写しであった。
事件と恋人の幻影を追うシュンの前に再びコークが現れ、
シュン、トウ、コーク三人の運命が交錯していく。
行方不明の恋人を敵の妻に重ねるシュン、
家族と生活を守るためにあえて悪徳弁護士となるトウ、
どこか殺し屋に徹しきれないコーク。
三者三様、背中に重いものを背負っているように感じます。
殺し屋と悪徳弁護士にはそれぞれの最期がありますが、
シュンの結末も希望に満ちた笑顔に反して、
もう彼は決して真実を知ることのないという哀しみを感じます。
号泣ではなくしっとりと見せるところが、韓流と華流の違いでしょうか。
シュンなどはウジウジ女々しい野郎と思いでしょうが、
クセやアクが無い、男からみればなんとなくも好感を持ちますよ。
アーロン・クオックという方、ややふっくらしたアンディ・ラウ
という印象ですが何か厚みを感じます。
中心となるはかっこいい男達のドラマでありますが、
エイミー&フォンを演じるは私が密かにファンである、アンジェリカ・リー。
「the EYE」のヒロインを演じていましたが、儚げな眼差しが素敵。
もっとスクリーンで見たい方ですが本業は歌手らしいです。
でも、期待の香港ノワールとは言え、
「インファナル・アフェア」ほどの衝撃はなかなかないですな~。
あれは神が降りていたのかもしれません。
魂と生きる ― 2006年07月24日 21時58分45秒
夏休みに世間は入ったようで、映画館も混みはじめました。
斜陽と言われながら邦画って人が入るんだな~、と感心します。
それでも集客は大作ばかりだろうと思ったら、これも満員でした。
実在した孤高の日本画家・田中一村の生涯を描いた
榎木孝明主演「アダン」です。
若き日から天才と謳われた画家・田中一村であったが、
気性の荒さ、頑なさが災いし画壇から弾き出されることとなる。
姉に支えられながら展覧会に出す絵を描くことのみを生活としてきたが、
昭和33年、50にして単身、奄美大島に渡り、生活の居を移す。
当初は奄美の自然を描き日本画壇に挑戦を叩きつける企みだったが、
いつしか雑念は消え去り、生きることと描くことが一体となっていく。
印象深いシーンがあります。
身体が老いてきて疲労に倒れた一村が、意識をとり戻し、
自分の右手が動くことに感動するシーンです。
「この右手が動き絵が描ける限り、自分は生きることができる」
そう言わんばかりの顔です。
趣味でも芸術でも、その他の活動がある限り、
一時はそれから離れ、いろいろなことを考えねばなりません。
例えば衣食住の生活、結婚、職場、他の趣味、家族親族。
それらも人生を充実させる要素ではありますが、
趣味や芸術への想いが強ければ強いほど、
他のものは重りになっていきます。
一村は絵を描くこと以外を極力捨て、ボロ屋に住み野菜を齧り、
島での僅かな労働で得るお金も画材と展覧会資金に当てました。
端からみれば狂人、奇人、鬼と映りますが、
辞めたい辞められない仕事の合間の僅かな余暇で気分転換するよりも、
望むことと生きることが一体となることができたのなら
人間にとってはこの上ない充実した人生ではないでしょうか。
その人生を掴むためには全てを捨てなければならない。
しかも、一村は遊びに費やしたのではありません。
趣味を仕事にできたラッキーな人間でもありません。
魂で描く、魂を描く。描く=生きるだったのです。
難しい。だからこそ、田中一村に憧れます。
榎木孝明は好きな俳優ですが、前半の演技はやり過ぎの印象も。
しかし、後半の鬼気迫る様子は、パンフレットを見て驚きましたが、
一村本人かと思えるような、魂を呼び込んだかのようでした。
絵を描く人ではなくとも、趣味に生きる人、やりたいことがある人、
そんな人達は触れるべき生涯、見るべき映画だと思います。
斜陽と言われながら邦画って人が入るんだな~、と感心します。
それでも集客は大作ばかりだろうと思ったら、これも満員でした。
実在した孤高の日本画家・田中一村の生涯を描いた
榎木孝明主演「アダン」です。
若き日から天才と謳われた画家・田中一村であったが、
気性の荒さ、頑なさが災いし画壇から弾き出されることとなる。
姉に支えられながら展覧会に出す絵を描くことのみを生活としてきたが、
昭和33年、50にして単身、奄美大島に渡り、生活の居を移す。
当初は奄美の自然を描き日本画壇に挑戦を叩きつける企みだったが、
いつしか雑念は消え去り、生きることと描くことが一体となっていく。
印象深いシーンがあります。
身体が老いてきて疲労に倒れた一村が、意識をとり戻し、
自分の右手が動くことに感動するシーンです。
「この右手が動き絵が描ける限り、自分は生きることができる」
そう言わんばかりの顔です。
趣味でも芸術でも、その他の活動がある限り、
一時はそれから離れ、いろいろなことを考えねばなりません。
例えば衣食住の生活、結婚、職場、他の趣味、家族親族。
それらも人生を充実させる要素ではありますが、
趣味や芸術への想いが強ければ強いほど、
他のものは重りになっていきます。
一村は絵を描くこと以外を極力捨て、ボロ屋に住み野菜を齧り、
島での僅かな労働で得るお金も画材と展覧会資金に当てました。
端からみれば狂人、奇人、鬼と映りますが、
辞めたい辞められない仕事の合間の僅かな余暇で気分転換するよりも、
望むことと生きることが一体となることができたのなら
人間にとってはこの上ない充実した人生ではないでしょうか。
その人生を掴むためには全てを捨てなければならない。
しかも、一村は遊びに費やしたのではありません。
趣味を仕事にできたラッキーな人間でもありません。
魂で描く、魂を描く。描く=生きるだったのです。
難しい。だからこそ、田中一村に憧れます。
榎木孝明は好きな俳優ですが、前半の演技はやり過ぎの印象も。
しかし、後半の鬼気迫る様子は、パンフレットを見て驚きましたが、
一村本人かと思えるような、魂を呼び込んだかのようでした。
絵を描く人ではなくとも、趣味に生きる人、やりたいことがある人、
そんな人達は触れるべき生涯、見るべき映画だと思います。
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