修復と保存 ~羅生門/デジタル完全版 ― 2009年04月24日 22時52分52秒
黒澤明監督の「羅生門/デジタル完全版」についてのこと。
デジタル技術による映像・音声の劣化を修復する試みは、
珍しいものではなくなりつつありますが、
いまだにこれが良いことなのかどうかは分かりません。
もちろんフィルムの劣化による黒い斑点も無い、
籠った不鮮明な音声もハッキリ聞こえる、
そういう映画の方が鑑賞はしやすい。
若い世代でも公開当時の印象を理解するのに役立ちます。
しかし、劣化していくことで醸しだされる「味」も
映画に特殊効果をもたらすものとも考えられます。
ぼやけた映像の恋愛映画は幻想的にロマンティックに、
コマ落ちする不協和音のホラーはより怪しげに、
所謂、近年、「グラインドハウス企画」を作った
タランティーノ等の嗜好に代表されるもの。
ダヴィンチの「最後の晩餐」は湿気などで
劣化があったと言いますが、芸術性の高いものに、
絶妙なバランスで滅びの兆しが見えると
神秘性が増して見えるのは"苔寺"を愛する日本人の感覚か?
スフィンクスは良い具合に削れているから良いのではないか?
とは言え、時と場合による。
息を呑むような映像だった、などと評された映画ならば、
その映像を是非再生させたものを一度拝みたいとも思います。
「羅生門」のデジタル完全版はやはり作られるべきもの。
黒澤明の「羅生門」は1950年に公開され、
1951年のベネチア国際映画祭でグランプリを受賞した作品。
いまさら説明するのも恥ずかしいような、
日本映画史どころか世界映画史に名を刻む作品です。
と、当然のことながら私は公開当時は生まれておらず、
レンタルによるメディア鑑賞が初めて。
しかし、8年前ぐらい前に鑑賞したものの、
その映像はかなり輪郭もぼやけており、
音声もフィルタがかかったようなもので、
「50年前の価値はまだ理解できん」と失礼にも思った次第。
聞くところによると「羅生門」は完成当時から
数奇な運命に見舞われたらしい。
記念公開作品のために延期できない日程、
撮影所の火事などの事故、再編集・再録音、
諸々の困難を越えた難産で公開前夜に完成したそうで、
そのため特に音声は製作側は満足いくものではなかったとのこと。
それでも世界の栄誉を勝ち取ったのだから凄い。
その後、何回も公開された作品は、
当然、上映回数を重ねるほどにフィルムは消耗し、
いつしか完全な状態に近いものを探すのがほぼ不可能になり、
これまでDVD等のメディア化されたものは、
そもそものコピー元の状態が良くないものなのだそうです。
そこで今回、現在この映画を獲得している角川映画が
修復プロジェクトを立ち上げ、完成に至った。
貴重な文化遺産の危機という認識で、
映画を文化として捉えたというのが素晴らしい。
完成版は既にブルーレイ化もされていますが、
やはりスクリーンで見るのが最も良い。
運の良いことに仙台フォーラムにて1週間だけ上映していました。
僅かに目に付いてしまったデジタルノイズを除けば、
これまでほぼ目にすることのなかった、
頬を伝い堕ちる汗や涙、皮膚・衣装の質感と感触、
そして森の中の葉の一枚一枚とそれを照らす太陽の光。
それらがはっきりくっきりと映し出される。
豪雨に見せるために水に墨汁を混ぜたという雨の跳ね返りも鮮明に。
音声も、そもそも三船敏郎の喋り方自体が
はっきりしないと思ったのですが、よく通って聞こえる。
修復はほぼ99.8%完璧だと思います。
「サーッ・・・・」というノイズ音は元々のサウンドトラックに
収録されていた音であり、風や水の音のようにも聞こえるため、
敢えてそのまま残したとのことでした。
鮮明な映像は話の理解にも、ある程度助けになるかと思います。
「羅生門」は映像だけではなく、構成と物語にも魅力があります。
完全版も、劣化版も人間の業と真相は闇の中という物語は同じ。
鮮明な映像は光るナイフで鋭く抉り出し、
ぼやけた映像は深い霧の中へと誘い惑わせる。
つまり、どちらも愛すべきものであり、
例えば、若かろうと老いようと心繋ぐ人は大きな存在である、
ということと同じなのではないでしょうか。
「羅生門」の構成手法は特にミステリー映画において
近年の作品にも活用されるほど有名なので、
今から見ておいて損は無い作品です。
また、相手をどこまで信じられるか、という
製作当時の戦後社会、芥川が原作を書いた当時、
そして現在また大きく圧し掛かる、未来永劫の問でもあります。
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