異分野の中の映画的記憶 ― 2009年07月16日 23時54分26秒

1983年のTVアニメ作品
「銀河疾風サスライガー」を全話鑑賞完了。
<あらすじ>
30世紀の未来、太陽系の惑星は過去のある出来事のために、
その数を増やして50以上を超えていた。
主人公のI・C・ブルースは犯罪シンジケートの大ボス、
ブラディ・ゴッドに対して世紀の大勝負をすることになる。
それは、新太陽系の主要惑星50個を1年以内で全て踏破できれば、
法外な金額の掛け金を手にすることができるというもの。
かくして、ブルースは仲間達と共に、SL型変形ロボ
"サスライガー"を駆って壮大でロマンに満ちた冒険の旅に出る。
当然ながら、下地にあるのはジュール・ベルヌの
「80日間世界一周旅行」ですが他にもこの作品には
映画から拝借した要素があちこちに散見されます。
第40話「栄光に架ける星」には、
ダボット・リーンという映画監督が登場。
サブタイトルからして「戦場にかける橋」のパロディで、
当然、その監督のデヴィッド・リーンがモデル。
このダボット・リーン、自分の監督する映画に"本物の戦闘"を
物語のシーンとして挿入するという荒業をやるのもパロディ的。
また、「サスライガー」の悪側のドン、ブラディ・ゴッドは
劇中で殆ど口から上を陰で隠した状態しか見せず、
膝の上でネコを撫でている様は、「007」シリーズの
最大の秘密組織スペクターの首領を思わせる。
あるいは、あるエピソードでは「ウェストサイド物語」の
ジェット団・シャーク団あたりを思わせるような
若者のギャング団が登場して花を添える。
この様な元ネタ探しなどの原稿を書くと抜群に上手い
ポップカルチャー評論家の、みのわあつお氏が
先日、50代の若さで逝去したと聞き、大変残念に思います。
氏の構成された「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」のパンフは、
映画の面白さを遥かに超えて、ベン・スティラーを中心とした
現在のアメリカンコメディ集団を描き出す圧巻な快作でした。
さてさて、ここまでは前菜。
何が言いたいかというと、昔のTVアニメなり漫画なりには、
当時やその昔の映画のネタがよく盛り込まれていたということ。
パロディ、オマージュあるいはパクリ、何にせよ、
制作者の趣味思考の底に映画的なテイストが
ごく普通にあったといっていいと思います。
例えば私は幼少の頃、西部劇映画を観たことが無いのに、
西部劇のキーワードは「さすらいのガンマン」「口笛」
「ジリジリと緊張感ある決闘」「吊るされる男」「荒野の砂塵」
というイメージが読んだ漫画、見たアニメで焼きついていた。
ところが、その後、成長して「駅馬車」などの
西部劇を見ると仲間がいてわりとのんびりもして何か違う。
そして、その後、「荒野の用心棒」などを見て、
「ああ!イメージはこれだ!」と思った。
いわゆる、マカロニウェスタンとそれ以外のウェスタンの違い。
乱暴に言えば「過激な暴力描写と孤独のナルシズム」か、
「牧歌的な情緒と開拓者精神を漂わす仲間達」など。
あれですね、私が読んだ漫画や見たアニメを作った人達は、
マカロニウェスタンがお気に入りだったのだと思います。
子供にも分かりやすいしドキドキ感が遥かに高いし。
前述のデヴィット・リーンのネタもそうですが、
子供には分からない大人の映画ネタもある。
けれども映画的な手法や精神が合間に滲んで、
作品の雰囲気を形作っていく。
漫画、小説、音楽、絵、映画もそれは表現手段であり、
描く素材は外部から貪欲に吸収されていくべきもの。
文化というのは互いに影響しあって発展するのだから。
10年ぐらい前に、誰かが危惧していたことですが、
「今は、漫画しか読まない漫画家、
ゲームしかやらないゲーム開発者、
アニメしか見ないアニメ作家が多い。」
それは現在のところはどうなのだろうか?
映画からの元ネタ探し、という発掘調査の楽しみは、
今の漫画やアニメ作品からは生まれているだろうか?
その点だけではなく、センスを磨いたり発想を豊かにする上で
異文化との交流を持つことは大事だと思います。
作り手だけのことではない、我々受け手も。
映画にしても、歴史や国や民族や文化風俗を理解していけば、
その面白さを100%以上楽しむこともできます。
その一つの趣味の内側だけにのめり込むだけではなく、
外側から異文化の素材を手に、新しい角度から切り込むこと。
それもまた、趣味の魅力を再発見するために必要な試みであり、
自分の視野・世界を広げることに繋がるのだと思います。
物事の奥は深い。
しかし、外の世界もまた広く無限。
「銀河疾風サスライガー」を全話鑑賞完了。
<あらすじ>
30世紀の未来、太陽系の惑星は過去のある出来事のために、
その数を増やして50以上を超えていた。
主人公のI・C・ブルースは犯罪シンジケートの大ボス、
ブラディ・ゴッドに対して世紀の大勝負をすることになる。
それは、新太陽系の主要惑星50個を1年以内で全て踏破できれば、
法外な金額の掛け金を手にすることができるというもの。
かくして、ブルースは仲間達と共に、SL型変形ロボ
"サスライガー"を駆って壮大でロマンに満ちた冒険の旅に出る。
当然ながら、下地にあるのはジュール・ベルヌの
「80日間世界一周旅行」ですが他にもこの作品には
映画から拝借した要素があちこちに散見されます。
第40話「栄光に架ける星」には、
ダボット・リーンという映画監督が登場。
サブタイトルからして「戦場にかける橋」のパロディで、
当然、その監督のデヴィッド・リーンがモデル。
このダボット・リーン、自分の監督する映画に"本物の戦闘"を
物語のシーンとして挿入するという荒業をやるのもパロディ的。
また、「サスライガー」の悪側のドン、ブラディ・ゴッドは
劇中で殆ど口から上を陰で隠した状態しか見せず、
膝の上でネコを撫でている様は、「007」シリーズの
最大の秘密組織スペクターの首領を思わせる。
あるいは、あるエピソードでは「ウェストサイド物語」の
ジェット団・シャーク団あたりを思わせるような
若者のギャング団が登場して花を添える。
この様な元ネタ探しなどの原稿を書くと抜群に上手い
ポップカルチャー評論家の、みのわあつお氏が
先日、50代の若さで逝去したと聞き、大変残念に思います。
氏の構成された「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」のパンフは、
映画の面白さを遥かに超えて、ベン・スティラーを中心とした
現在のアメリカンコメディ集団を描き出す圧巻な快作でした。
さてさて、ここまでは前菜。
何が言いたいかというと、昔のTVアニメなり漫画なりには、
当時やその昔の映画のネタがよく盛り込まれていたということ。
パロディ、オマージュあるいはパクリ、何にせよ、
制作者の趣味思考の底に映画的なテイストが
ごく普通にあったといっていいと思います。
例えば私は幼少の頃、西部劇映画を観たことが無いのに、
西部劇のキーワードは「さすらいのガンマン」「口笛」
「ジリジリと緊張感ある決闘」「吊るされる男」「荒野の砂塵」
というイメージが読んだ漫画、見たアニメで焼きついていた。
ところが、その後、成長して「駅馬車」などの
西部劇を見ると仲間がいてわりとのんびりもして何か違う。
そして、その後、「荒野の用心棒」などを見て、
「ああ!イメージはこれだ!」と思った。
いわゆる、マカロニウェスタンとそれ以外のウェスタンの違い。
乱暴に言えば「過激な暴力描写と孤独のナルシズム」か、
「牧歌的な情緒と開拓者精神を漂わす仲間達」など。
あれですね、私が読んだ漫画や見たアニメを作った人達は、
マカロニウェスタンがお気に入りだったのだと思います。
子供にも分かりやすいしドキドキ感が遥かに高いし。
前述のデヴィット・リーンのネタもそうですが、
子供には分からない大人の映画ネタもある。
けれども映画的な手法や精神が合間に滲んで、
作品の雰囲気を形作っていく。
漫画、小説、音楽、絵、映画もそれは表現手段であり、
描く素材は外部から貪欲に吸収されていくべきもの。
文化というのは互いに影響しあって発展するのだから。
10年ぐらい前に、誰かが危惧していたことですが、
「今は、漫画しか読まない漫画家、
ゲームしかやらないゲーム開発者、
アニメしか見ないアニメ作家が多い。」
それは現在のところはどうなのだろうか?
映画からの元ネタ探し、という発掘調査の楽しみは、
今の漫画やアニメ作品からは生まれているだろうか?
その点だけではなく、センスを磨いたり発想を豊かにする上で
異文化との交流を持つことは大事だと思います。
作り手だけのことではない、我々受け手も。
映画にしても、歴史や国や民族や文化風俗を理解していけば、
その面白さを100%以上楽しむこともできます。
その一つの趣味の内側だけにのめり込むだけではなく、
外側から異文化の素材を手に、新しい角度から切り込むこと。
それもまた、趣味の魅力を再発見するために必要な試みであり、
自分の視野・世界を広げることに繋がるのだと思います。
物事の奥は深い。
しかし、外の世界もまた広く無限。
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