闇に潰される光 ~MW2009年07月08日 23時12分55秒

手塚治虫生誕80周年を記念して制作された映画
MW(ムウ)」についてのこと。


16年前、沖ノ真船島という小島の島民全員が死亡する事件が発生。
島に駐留する外国軍の基地の化学兵器「MW(ムウ)」が
漏洩したことによる事故だったが、
日本政府により真相は闇に葬り去られた。

しかし、その惨劇を生残り本土へ逃げた2人の少年がいた。
一人は賀来巌。彼は現在は神父となり、人々の救済に務めていた。
そしてもう一人は結城美知夫。
彼は表向きはエリート銀行員だったが、その顔の裏には
MWに関わった関係者達への復讐を秘めた鬼の顔があった。
MWにより身体を蝕まれた彼は精神も怪物と化していた。

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原作は問題作と呼ばれているとのことですが、
私はまだ読んではいません。

原作にあった賀来と結城の同性愛関係は削除されたとのこと。
映画では匂わせる程度(昨今の少年誌漫画より遥かにぬるい)です。
そのせいなのか、二人の関係がどうも弱い。

結城を「神が堕とした、最悪の闇」といい、
賀来を「神が残した、最後の光」といった宣伝資料ですが、
結城の力の方がどうしても強く、賀来は潰れそうに弱い。
同性愛に代わる複雑な主従関係が見受けられず、
賀来の意志が弱いために結城に屈している様にしか見えない。

結城役の玉木宏が好演しており、
役作りのためにダイエットしたという甲斐あって、
痩せた顔とシャープな体躯に、時折、
相手の心の奥の闇まで見透かすような黒い瞳に惹き付けられます。

しかし、玉木宏が好演すればするほど、
賀来役の山田孝之が弱弱しく光も希望も見えなくなっていきます。
実力は負けていない若手であるはずなのに演出が弱い。
MWを奪取し自己犠牲を伴う最後は活躍するものの、
ラストシーンで何食わぬ顔で再び結城が登場しては、
全くの無駄という印象は拭いきれません。

弱いといえば、沖ノ真船島事件の真相に挑もうとする記者の
石田ゆり子もなんのためにいるのか。
結城と賀来を島に再び導き、破棄されたMWを発見して
真相を暴こうとするも結城をMWに近づけたに過ぎないばかりか、
死の間際まで結城の正体に気づかない様は、
行くなと思っている方向に逃げて怪物に殺されるホラー映画の
"被害者その3"並みの扱いで、少なくとも石田ゆり子の様な
キャスティングで行われる様な役ではありません。


唯一、玉木宏と拮抗する名勝負を展開するのは
誘拐・殺人事件を追ううちに結城へと辿り着く刑事役の石橋凌
冒頭の誘拐殺人事件での玉木と石橋の
香港映画の様な荒々しい追跡劇はぐっと掴まれる魅力があり。

50歳を過ぎて良い走りっぷりと感心する
海外の映画に出演しても強いオーラを放つ
このいかついおっさんの"若手二人には負けんぞ"な魅力は
美男美女目当ての若い観客には分からんでしょうが。

そもそも16年前の事件もはっきりとは"映画として"語られず、
賀来達の台詞で済ませようというのが物足りず、
二人の歩んできた生き方の違いすら見えない。
「まあ、少年時代のトラウマがあればこんな風にもなるよね」
というあやふやな方程式で押し付けられた感じです。


例え原作に書いていないことであっても、
映画という別の語り口にする以上、映像と脚本と演技と音楽と、
全てを駆使して、書かれていない部分を、
映画でしかできない領域にイメージを膨らませるのが
映画制作ですべきことではないでしょうか。
それを怠ったとみられる例の最悪な形ではないかと思われます。

制限時間内に収めるべく削って削って、
なんとか収納スペースに収めました、
では原作を越えるどころか同等にもなれない。


劇場を出るとき、前を歩いていた若い女子が
「つまんなかったねー」と言っていました。
その言い方は何もない無責任な言い方でしたが、
それも分かるような気もしました。

天国で手塚治虫先生はどう思ったか?
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