14歳から30歳へ。30歳から14歳へ。 ~「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」 ― 2009年07月01日 23時58分44秒

それは実に奇妙な感覚でした。
「新世紀エヴァンゲリオン」TV版の本放送時、
私は15、16歳といったところでした。
こちら(仙台)では放送していなかったので、
ビデオにて鑑賞がかなったのはそれより約1年ほど後。
丁度、本放送終了後の劇場版第1部の後あたりで、
実際に見ることになり、全編を旧劇場版まで全て通して
鑑賞を終えたのは17、18歳ぐらいのときでした。
そして、現在。30歳の私。
2007年「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」のとき、29歳。
2009年の今年、来月にはまた誕生日を迎えて
一歳年をとり31歳となろうとしている私が、
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」を劇場で鑑賞しています。
奇妙なのは、TV放送当時、シンジ、レイ、アスカら
14歳の主人公達とほぼ同年代であった自分が、
(鑑賞した年でもまだ彼・彼女らの年齢に近い)
今では、彼らを見守る側のミサト、リツコ、加持らと
ほぼ同年代となっていることです。
数年前から例えばダニエル・ラドクリフらの、
子役達を観る自分の目線が、同世代視点の「共感」から
兄や親目線の「理解」へと移っていることを感じていましたが、
それが作品世界の大人たちとシンクロするようになった。
いや、登場する大人達の目線を理解する感覚は
既に他の作品を鑑賞することで体験していましたが、
旧作品の新約作品が作られるまでの自分の経験した年月が、
作品の中の大人達と同年齢となって出会うまでの年月となる、
そんな体験はこれまでに味わったことがありません。
そして、かつての共感は、大人達への「共感」へシフトします。
「辛いことを経験した人間は、本当に優しくなれる」
加持リョウジがシンジに向ける台詞は、
かつて、15、16歳の時に聞けばかっこいい台詞であり、
マセた思いでその通りと知った風な同意をしたでしょうが、
こちらもそれなりに、辛さ寂しさ切なさ哀しさ、
そしてささやかな幸せや温もりを経験してきた今では、
実感を伴って自分の胸を揺さぶり、
いつかそんな言葉を送るべき誰かを憂いた目線の先に想う。
(別に誰かがいるわけでもないけども)
かつて、自分が作品世界に観てきたかっこいい大人達。
それと同年齢になっていたことにまざまざと気づかされる自分。
彼らは自分よりもとてつもない経験をしてるとはいえ、
自分は全然未熟でかっこいい人生の言葉の一つも、
説得力を伴って発することのできないことに落胆します。
しかしながら、ミサトも加持も、新時代の作品の大人達は、
ほとんどが大人になりきれない未成熟な子供の面があります。
ならば、30歳にして未だ見苦しく未成熟な自分でも、
少しは大人に近づいているのでしょうか。
共感してともに成長の道を歩んでいたはずの少年達は、
再び時間を巻き戻され再度出発点へ。
彼らを理解する見方になった私は少年達への共感へは戻れず、
むしろ、同年になった大人達の隣で彼らの方へ共感している。
無論、同じ様に感じられると思える様になっているだけで、
大人達の感覚を理解するところまでは行ってはいません。
相手や自分のことを「分かる」というのは、
リアルタイムに分かるのではなく、
遅すぎるくらいの頃にやっと分かるのでは?とさえ思う。
・・・・・・・・・。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」を鑑賞している間、
新キャラクター・マリやアスカとエヴァ弐号機、
新型エヴァ、劇場版だけの新展開に魅せられつつも、
そんな奇妙な感覚と思索にふけっていました。
それは、TV版当初から予定されていた緻密かつ
壮大な計算のようにすら思えてしまうほど。
無論、話の展開は鮮烈に記憶に残っています。
まずよく動くアニメだと感じ、
輸送機から投下・飛翔するエヴァ弐号機、
地上を走る初号機、その動きの美しさに涙が溢れます。
登場人物達の豊かな表情も素晴らしい。
表情とは顔だけではなく、手を降り足を動かし、
身体を捻り、静かに佇み、視線の先に感情を写すこと。
表情の変化に乏しいという綾波レイですら、
一人の人物としての存在感をそこに確立させています。
それがこの「新約エヴァ」が平凡なアニメと違う点です。
潮の匂いと土の匂い。
さり気ないですが、彼らの生きている気配がします。
風の匂いもいつか感じられるのでしょうか。
とあるアニメ作品にて、昨今よく見られる淡白な作画の、
色合いや表情が薄く、いかにもリアルな空気感を出したつもりで、
ヘアカットのマネキンヘッドが並んでるがの如く
人間性の無い絵に魂の無い声が当てられただけの、
ぞっとする絵が散見されるのとはえらい違いです。
物語は新キャラ・新生使徒の登場とともに、
TV版との重要度の上昇・低下により
それぞれの担う役割を別の人物にシフトさせていきます。
しかし、それでも物語の演者が変わるというくらいでしかない。
そう思いかけた最後の闘いにおいて、まさに物語の「破」が起こる。
いや、「破!」「破!!」「破!!!」「破!!!!」と続く。
あと一枚!とマリがぶち破ったATフィールドは、
そのまま旧約エヴァたるものの壁だったのか?
かろうじて旧劇場版的雰囲気を匂わせながら、
次回はどう終結させていくのか。
そして、おそらくこのペースなら公開は2011年か2012年?
その頃までにまた私は様々なことを経験しているはず。
その時、どんな気持ちで少年少女達を、
大人(になりきれない大人)達を見つめているのか。
作品の行き先と、その時の自分達が幸福であることを。
「新世紀エヴァンゲリオン」TV版の本放送時、
私は15、16歳といったところでした。
こちら(仙台)では放送していなかったので、
ビデオにて鑑賞がかなったのはそれより約1年ほど後。
丁度、本放送終了後の劇場版第1部の後あたりで、
実際に見ることになり、全編を旧劇場版まで全て通して
鑑賞を終えたのは17、18歳ぐらいのときでした。
そして、現在。30歳の私。
2007年「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」のとき、29歳。
2009年の今年、来月にはまた誕生日を迎えて
一歳年をとり31歳となろうとしている私が、
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」を劇場で鑑賞しています。
奇妙なのは、TV放送当時、シンジ、レイ、アスカら
14歳の主人公達とほぼ同年代であった自分が、
(鑑賞した年でもまだ彼・彼女らの年齢に近い)
今では、彼らを見守る側のミサト、リツコ、加持らと
ほぼ同年代となっていることです。
数年前から例えばダニエル・ラドクリフらの、
子役達を観る自分の目線が、同世代視点の「共感」から
兄や親目線の「理解」へと移っていることを感じていましたが、
それが作品世界の大人たちとシンクロするようになった。
いや、登場する大人達の目線を理解する感覚は
既に他の作品を鑑賞することで体験していましたが、
旧作品の新約作品が作られるまでの自分の経験した年月が、
作品の中の大人達と同年齢となって出会うまでの年月となる、
そんな体験はこれまでに味わったことがありません。
そして、かつての共感は、大人達への「共感」へシフトします。
「辛いことを経験した人間は、本当に優しくなれる」
加持リョウジがシンジに向ける台詞は、
かつて、15、16歳の時に聞けばかっこいい台詞であり、
マセた思いでその通りと知った風な同意をしたでしょうが、
こちらもそれなりに、辛さ寂しさ切なさ哀しさ、
そしてささやかな幸せや温もりを経験してきた今では、
実感を伴って自分の胸を揺さぶり、
いつかそんな言葉を送るべき誰かを憂いた目線の先に想う。
(別に誰かがいるわけでもないけども)
かつて、自分が作品世界に観てきたかっこいい大人達。
それと同年齢になっていたことにまざまざと気づかされる自分。
彼らは自分よりもとてつもない経験をしてるとはいえ、
自分は全然未熟でかっこいい人生の言葉の一つも、
説得力を伴って発することのできないことに落胆します。
しかしながら、ミサトも加持も、新時代の作品の大人達は、
ほとんどが大人になりきれない未成熟な子供の面があります。
ならば、30歳にして未だ見苦しく未成熟な自分でも、
少しは大人に近づいているのでしょうか。
共感してともに成長の道を歩んでいたはずの少年達は、
再び時間を巻き戻され再度出発点へ。
彼らを理解する見方になった私は少年達への共感へは戻れず、
むしろ、同年になった大人達の隣で彼らの方へ共感している。
無論、同じ様に感じられると思える様になっているだけで、
大人達の感覚を理解するところまでは行ってはいません。
相手や自分のことを「分かる」というのは、
リアルタイムに分かるのではなく、
遅すぎるくらいの頃にやっと分かるのでは?とさえ思う。
・・・・・・・・・。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」を鑑賞している間、
新キャラクター・マリやアスカとエヴァ弐号機、
新型エヴァ、劇場版だけの新展開に魅せられつつも、
そんな奇妙な感覚と思索にふけっていました。
それは、TV版当初から予定されていた緻密かつ
壮大な計算のようにすら思えてしまうほど。
無論、話の展開は鮮烈に記憶に残っています。
まずよく動くアニメだと感じ、
輸送機から投下・飛翔するエヴァ弐号機、
地上を走る初号機、その動きの美しさに涙が溢れます。
登場人物達の豊かな表情も素晴らしい。
表情とは顔だけではなく、手を降り足を動かし、
身体を捻り、静かに佇み、視線の先に感情を写すこと。
表情の変化に乏しいという綾波レイですら、
一人の人物としての存在感をそこに確立させています。
それがこの「新約エヴァ」が平凡なアニメと違う点です。
潮の匂いと土の匂い。
さり気ないですが、彼らの生きている気配がします。
風の匂いもいつか感じられるのでしょうか。
とあるアニメ作品にて、昨今よく見られる淡白な作画の、
色合いや表情が薄く、いかにもリアルな空気感を出したつもりで、
ヘアカットのマネキンヘッドが並んでるがの如く
人間性の無い絵に魂の無い声が当てられただけの、
ぞっとする絵が散見されるのとはえらい違いです。
物語は新キャラ・新生使徒の登場とともに、
TV版との重要度の上昇・低下により
それぞれの担う役割を別の人物にシフトさせていきます。
しかし、それでも物語の演者が変わるというくらいでしかない。
そう思いかけた最後の闘いにおいて、まさに物語の「破」が起こる。
いや、「破!」「破!!」「破!!!」「破!!!!」と続く。
あと一枚!とマリがぶち破ったATフィールドは、
そのまま旧約エヴァたるものの壁だったのか?
かろうじて旧劇場版的雰囲気を匂わせながら、
次回はどう終結させていくのか。
そして、おそらくこのペースなら公開は2011年か2012年?
その頃までにまた私は様々なことを経験しているはず。
その時、どんな気持ちで少年少女達を、
大人(になりきれない大人)達を見つめているのか。
作品の行き先と、その時の自分達が幸福であることを。
欅の香 ~インテリア&カフェ けやき 富谷イオン店 ― 2009年07月02日 23時14分25秒
富谷イオンの二階の、
昔ジャスコの洋服コーナーだった場所が
長らく改装中となっておりましたが、
今日訪れると新しいお店が入っていました。
洋服コーナーはアメリカ屋になっていたのですが、
私が注目したのはその隣に開店した、
「インテリア&カフェ けやき」です!
仙台箪笥と和工芸のお店なのですが、
「なんだ箪笥かよ」と思うなかれ。
ごらんの様に、カフェが併設されておるのです!
しかも、テーブルも欅の漆塗りらしい・・・。
そのためちょっとワンランク上の落ち着き感が。
あ、ちなみに各テーブルに置かれたメニュー冊子は、
「ご自由にお持帰りください」とのこと。
もちろん持って帰りました!・笑
そして、けやきのメニューと言ったらこれ!
京都「松之助」から取り寄せている
ニューヨーク・チーズケーキ!!
う~、前から食べたかったのだ~。
じっくりと眺めつつ、口に入れると、
ぬぅう。噂に違わぬ濃厚ぉ。
そしてボソボソ無しに蕩けるクリーミー。
クラッシュしたクッキーが散らされている以外は
全てチーズで満たされる味覚。
オリジナルブレンドコーヒーとの相性も抜群。
うーん、シアワセ。
ちょっと良いな、と思った花柄の包装の角砂糖。
可憐なリンドウを選ばせて頂きました。
実は「インテリア&カフェ けやき」は堤町の
ドンキホーテの道路向かいにあるのですが、
意外に立寄りにくいところにあったので、
今まで訪ねる機会がなかったのです。
それが、頻繁に訪れる富谷イオンの、
こんな入りやすいオープンカフェスタイルで登場とは!
映画の度に立寄りたい誘惑に駆られるではないか!
昔ジャスコの洋服コーナーだった場所が
長らく改装中となっておりましたが、
今日訪れると新しいお店が入っていました。
洋服コーナーはアメリカ屋になっていたのですが、
私が注目したのはその隣に開店した、
「インテリア&カフェ けやき」です!
仙台箪笥と和工芸のお店なのですが、
「なんだ箪笥かよ」と思うなかれ。
ごらんの様に、カフェが併設されておるのです!
しかも、テーブルも欅の漆塗りらしい・・・。
そのためちょっとワンランク上の落ち着き感が。
あ、ちなみに各テーブルに置かれたメニュー冊子は、
「ご自由にお持帰りください」とのこと。
もちろん持って帰りました!・笑
そして、けやきのメニューと言ったらこれ!
京都「松之助」から取り寄せている
ニューヨーク・チーズケーキ!!
う~、前から食べたかったのだ~。
じっくりと眺めつつ、口に入れると、
ぬぅう。噂に違わぬ濃厚ぉ。
そしてボソボソ無しに蕩けるクリーミー。
クラッシュしたクッキーが散らされている以外は
全てチーズで満たされる味覚。
オリジナルブレンドコーヒーとの相性も抜群。
うーん、シアワセ。
ちょっと良いな、と思った花柄の包装の角砂糖。
可憐なリンドウを選ばせて頂きました。
実は「インテリア&カフェ けやき」は堤町の
ドンキホーテの道路向かいにあるのですが、
意外に立寄りにくいところにあったので、
今まで訪ねる機会がなかったのです。
それが、頻繁に訪れる富谷イオンの、
こんな入りやすいオープンカフェスタイルで登場とは!
映画の度に立寄りたい誘惑に駆られるではないか!
偉大なる作品を受けて立つ ~ターミネーター4 ― 2009年07月03日 23時18分38秒

ターミネーター・シリーズ最新作
「ターミネーター4」についてのこと。
ジェームズ・キャメロン監督の
「ターミネーター2」は偉大すぎる作品でした。
「ターミネーター(1)」は低予算映画という関係上、
傑作でありながら「2」と見比べるとまだ
80年代の濫造B級映画のカラーがまといつきます。
「2」から待ち望むこと12年の「ターミネーター3」。
悪くは無かったものの、監督が前2作と違うという以上に、
作品として前2作より見劣りしてしまう感は否めませんでした。
「3」の後、シュワちゃんはカリフォルニア州知事として活動。
「4」の企画は直ぐに立ったものの、「シュワちゃん抜きでもやる。」
という「3」の監督ジョナサン・モストゥの発言に、
「シュワちゃんで支えてきたシリーズなのに正気か?」
と、カフェオレからコーヒーを抜くに等しい(?)衝撃を感じたものです。
時は流れ、どうやら本気でシュワちゃん抜きで作っていたらしく
予告編も約半年ほど前から劇場で流れ初め、
いつの間にか監督はモストゥからMcG(マック・ジー)へ。
ジョン・コナーは大人になり、実力派のクリスチャン・ベイルへ。
その公開前からシリーズの構成について、
「『3』は無かったことにして『2』から『4』へ直接続くらしい、」
という「3」がいまいちだっただけに分からなくもない噂があったり、
(実際、アン・リー監督の「ハルク」を無かったことにして、
「インクレディブル・ハルク」から仕切り直すとか、
「スーパーマン・リターンズ」も仕切り直すとか、とにかく、
前作の不興でシリーズを仕切り直すことが目立った時期でもあり。)
ちょっと、裏話の方が面白そうなことになりました。
「3」の脚本を観て「この脚本にはドラマが無い」と一蹴したらしい
リンダ・ハミルトンに次回作への出演をMcGが希望しているとか、
「3」に対して不快に思っているキャメロン監督にMcGが相談に行き、
励ましと好意的な言葉を頂戴したとか(アドバイザーかは不明)、
クリスチャン・ベイルが「3」だけは好きになれないと語るとか、
(パンフレット掲載のインタビューより要約)
確かに「3」は置いていかれている様子が伺えます。
まあ、作品ごとに別時間軸の話となると、
シリーズ物の完璧な年表作成マニアや、時代考証マニア等が
年表をパラレルワールド式に分岐させる必要があるためだったり、
「4」の直前から始まった海外ドラマ「サラ・コナー・クロニクル」も
時間軸を別にする話であり、「2」の後から世界が一気に
三分岐するなどという可能性があるわけで。
そんなことを調べられるのも、このシリーズの人気であるわけで。
(「2」以降の小説版の分岐もあるので、さらに世界は生まれている。)
おそらくこの先、DVDやBDにてメイキング映像やら未公開シーンが
公開されれば、またそのあたりも見解に変化が現れるでしょう。
で、肝心の本編。
予告編で心配した映像に関しては大丈夫。
明暗のコントラストを強くしてさらに彩度も落とした、
近年の戦争映画のような映像ですが、映像を加工しすぎると
折角のメカニックデザインが見えにくくならないかと、
(失敗例が「エイリアンVSプレデター2」等)
危惧していた点については要らぬ心配でした。
キャメロンのブルー基調の「2」とは大分印象が異なるものの、
審判の日以降の新三部作という、壮大な第2部のカラーと
考えればこれも悪くはありません。
実に様々な敵メカが登場し、バイク型や飛行型、
さらにモンスター型として海蛇のようなタイプが登場。
水中からウヨウヨ湧いてきて人間を噛み千切るわけですが、
これがキャメロン監督の長編デビュー作
「殺人魚フライングキラー」を思い起こさせて、
キャメロンへのMcGからのオマージュの一つと観るのは
幾らなんでも考えすぎか?
ちなみに、「殺人魚フライングキラー」で準主役で出演した
ランス・ヘンリクセンは「ターミネーター」製作当初、
シュワちゃんの前にターミネーター役に決まっていた人。
勿論、ドクロの様な人体骨格型(エンドスケルトン)も大量に登場。
T-600、T-700とバリエーション豊かに登場し、
旧式はボロボロのゴム製皮膚を纏ったゾンビの如し。
荒野を彷徨うはぐれターミネーターとかいるのか?
そして、鍵を握るのがマーカス・ライトなる、
半人間・半ターミネーターなる存在。
別系統の開発とはいえ、液体金属タイプのT-1000や、
T-800型(シュワちゃんが演じてきた型)のロールアウト以前で、
このタイプは少々早すぎるのではと思うけれども、
与えられた役目は「俺は何ものか?」という
アシモフの「われはロボット」のような
ロボットから人間を問うかの如く哲学的なものの様。
ジョン・コナーはマーカスの正体を知ったとき、
敵の戦力だと思い敵対するのですが、
10歳の時に純正ロボットのT-800と擬似父子的関係を育んだ記憶は
闘いの中で既に彼方へと消え去ったのか。
和解するときにも思い出した様子はありません。
スカイネット基地へと乗り込んだジョンとマーカスは、
最新型ターミネーターT-800と対面します。
その顔は若き日のアーノルド・シュワルツェネッガー!!(CG)
「よ!待ってました!」と思わず拍手をしてしまう。
この場面でのマーカスはかつての「2」でのT-800の役割で
一時の機能停止から蘇生までオマージュされる周到ぶり。
全体として「3」のハート型サングラスの様な
たちの悪いパロディは無く、正統派オマージュでシリアス、
ドラマにも重点を置き、キャメロン監督への敬愛が感じられ、
シュワちゃん抜きでよくやったと思います。
しかしながら、最近放送した「ターミネーター2」を
やはり食い入る様に鑑賞してしまったこと。
それを思うとそのクオリティの壁はまだ超えられない。
これからの2作品に期待しましょう。
「ターミネーター4」についてのこと。
ジェームズ・キャメロン監督の
「ターミネーター2」は偉大すぎる作品でした。
「ターミネーター(1)」は低予算映画という関係上、
傑作でありながら「2」と見比べるとまだ
80年代の濫造B級映画のカラーがまといつきます。
「2」から待ち望むこと12年の「ターミネーター3」。
悪くは無かったものの、監督が前2作と違うという以上に、
作品として前2作より見劣りしてしまう感は否めませんでした。
「3」の後、シュワちゃんはカリフォルニア州知事として活動。
「4」の企画は直ぐに立ったものの、「シュワちゃん抜きでもやる。」
という「3」の監督ジョナサン・モストゥの発言に、
「シュワちゃんで支えてきたシリーズなのに正気か?」
と、カフェオレからコーヒーを抜くに等しい(?)衝撃を感じたものです。
時は流れ、どうやら本気でシュワちゃん抜きで作っていたらしく
予告編も約半年ほど前から劇場で流れ初め、
いつの間にか監督はモストゥからMcG(マック・ジー)へ。
ジョン・コナーは大人になり、実力派のクリスチャン・ベイルへ。
その公開前からシリーズの構成について、
「『3』は無かったことにして『2』から『4』へ直接続くらしい、」
という「3」がいまいちだっただけに分からなくもない噂があったり、
(実際、アン・リー監督の「ハルク」を無かったことにして、
「インクレディブル・ハルク」から仕切り直すとか、
「スーパーマン・リターンズ」も仕切り直すとか、とにかく、
前作の不興でシリーズを仕切り直すことが目立った時期でもあり。)
ちょっと、裏話の方が面白そうなことになりました。
「3」の脚本を観て「この脚本にはドラマが無い」と一蹴したらしい
リンダ・ハミルトンに次回作への出演をMcGが希望しているとか、
「3」に対して不快に思っているキャメロン監督にMcGが相談に行き、
励ましと好意的な言葉を頂戴したとか(アドバイザーかは不明)、
クリスチャン・ベイルが「3」だけは好きになれないと語るとか、
(パンフレット掲載のインタビューより要約)
確かに「3」は置いていかれている様子が伺えます。
まあ、作品ごとに別時間軸の話となると、
シリーズ物の完璧な年表作成マニアや、時代考証マニア等が
年表をパラレルワールド式に分岐させる必要があるためだったり、
「4」の直前から始まった海外ドラマ「サラ・コナー・クロニクル」も
時間軸を別にする話であり、「2」の後から世界が一気に
三分岐するなどという可能性があるわけで。
そんなことを調べられるのも、このシリーズの人気であるわけで。
(「2」以降の小説版の分岐もあるので、さらに世界は生まれている。)
おそらくこの先、DVDやBDにてメイキング映像やら未公開シーンが
公開されれば、またそのあたりも見解に変化が現れるでしょう。
で、肝心の本編。
予告編で心配した映像に関しては大丈夫。
明暗のコントラストを強くしてさらに彩度も落とした、
近年の戦争映画のような映像ですが、映像を加工しすぎると
折角のメカニックデザインが見えにくくならないかと、
(失敗例が「エイリアンVSプレデター2」等)
危惧していた点については要らぬ心配でした。
キャメロンのブルー基調の「2」とは大分印象が異なるものの、
審判の日以降の新三部作という、壮大な第2部のカラーと
考えればこれも悪くはありません。
実に様々な敵メカが登場し、バイク型や飛行型、
さらにモンスター型として海蛇のようなタイプが登場。
水中からウヨウヨ湧いてきて人間を噛み千切るわけですが、
これがキャメロン監督の長編デビュー作
「殺人魚フライングキラー」を思い起こさせて、
キャメロンへのMcGからのオマージュの一つと観るのは
幾らなんでも考えすぎか?
ちなみに、「殺人魚フライングキラー」で準主役で出演した
ランス・ヘンリクセンは「ターミネーター」製作当初、
シュワちゃんの前にターミネーター役に決まっていた人。
勿論、ドクロの様な人体骨格型(エンドスケルトン)も大量に登場。
T-600、T-700とバリエーション豊かに登場し、
旧式はボロボロのゴム製皮膚を纏ったゾンビの如し。
荒野を彷徨うはぐれターミネーターとかいるのか?
そして、鍵を握るのがマーカス・ライトなる、
半人間・半ターミネーターなる存在。
別系統の開発とはいえ、液体金属タイプのT-1000や、
T-800型(シュワちゃんが演じてきた型)のロールアウト以前で、
このタイプは少々早すぎるのではと思うけれども、
与えられた役目は「俺は何ものか?」という
アシモフの「われはロボット」のような
ロボットから人間を問うかの如く哲学的なものの様。
ジョン・コナーはマーカスの正体を知ったとき、
敵の戦力だと思い敵対するのですが、
10歳の時に純正ロボットのT-800と擬似父子的関係を育んだ記憶は
闘いの中で既に彼方へと消え去ったのか。
和解するときにも思い出した様子はありません。
スカイネット基地へと乗り込んだジョンとマーカスは、
最新型ターミネーターT-800と対面します。
その顔は若き日のアーノルド・シュワルツェネッガー!!(CG)
「よ!待ってました!」と思わず拍手をしてしまう。
この場面でのマーカスはかつての「2」でのT-800の役割で
一時の機能停止から蘇生までオマージュされる周到ぶり。
全体として「3」のハート型サングラスの様な
たちの悪いパロディは無く、正統派オマージュでシリアス、
ドラマにも重点を置き、キャメロン監督への敬愛が感じられ、
シュワちゃん抜きでよくやったと思います。
しかしながら、最近放送した「ターミネーター2」を
やはり食い入る様に鑑賞してしまったこと。
それを思うとそのクオリティの壁はまだ超えられない。
これからの2作品に期待しましょう。
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