コリント人への手紙/13章 ~愛のむきだし ― 2009年04月15日 23時52分44秒

園子温(その しおん)監督作品、
「愛のむきだし」についてのこと。
<物語>
主人公・ユウは敬虔なクリスチャンの家庭に育ち、
幼い頃に母を亡くし、神父の父・テツに育てられる。
ある日、テツはカオリという女性を愛し共に暮らすが、
根が遊び人のカオリは数ヶ月で家を出る。
以来、テツは人が変わり厳格になり、ユウに毎日懺悔を強いる。
テツは取るに足らない罪を罪と認めず、また嘘を見抜く。
ヤケになったユウは父に懺悔し愛されるため率先して罪作りに励む。
そして、女性の盗撮に挑んだユウは
神業の様な盗撮術を身に付けその道のカリスマになって行く。
だが、決してそれに性欲を抱くことは全くなかった。
ユウの心は、母と誓ったいつか巡り合うことを信じる、
「運命のマリア様」のためにあるのだった。
そして、運命の日は訪れた。
悪漢に囲まれた美少女女子高生・ヨーコ。
ユウはヨーコを助け、彼女こそ「運命のマリア様」と信じた。
そして、ヨーコも恋心を抱いた。
問題は出会ったとき、ユウは盗撮仲間達の罰ゲームで女装しており、
ヨーコが恋したのはその女装姿"サソリ"だったことだった。
しかも、ヨーコは父親のせいで世の男を敵と見做していた。
しかし、運命の歯車は複雑かつ急展開へと回りだす。
ヨーコは転校生としてユウのクラスへ。
さらに、父とカオリがヨリを戻し、ヨーコは連れ子だった。
二人が結婚すれば、ヨーコとは恋人ではなく兄妹になってしまう。
ユウは"サソリ"としてヨーコに接し、兄を慕う様に言い聞かせる。
おかげで、妹は兄に愛らしく接してくれるようになる。
恋した人に言われたから、の芝居ではあるのだが。
同じ屋根の下、隣同士の部屋で暮らしながら、
ヨーコへの気持ちを打明けられないばかりか、
彼女の想い人"サソリ"を自分で演じ、良き兄として振舞い、
残酷なる境遇に気が狂いそうになっていくユウ。
だが、これはまだ二人の試練の序章だった。
父を抱込みその信者達を丸ごと引き入れ様とする、
悪い噂の新興宗教"ゼロ教団"の妖しき美少女・小池によって、
父もカオリも、そしてヨーコも教団の信徒にされてしまったのだ。
その日から、教団からヨーコを救い出すための、ユウの戦いが始まる。
------------------------------------------------------
まず、上映時間が237分。3時間57分あるということ。
これまでの200分を超える映画と言えば?
「ベン・ハー(1959年版)」212分、「風とともに去りぬ」222分
「アラビアのロレンス」207分、「七人の侍」207分、などなど。
近年では「ロード・オブ・ザ・リング」3部作の各完全版など。
約7時間のイタリア映画「輝ける青春」や、
全作合わせて約9時間の「人間の條件」などもありますが、
スタッフ・キャストともに一級(もしくは後に名を残す)の
イメージが強く、いくらなんでも園子温を並べるのは躊躇う。
躊躇はともかく、見る方には鑑賞前から覚悟が伴います。
はずせばたちまち睡魔が襲ってくることは容易に想像できますが、
懺悔や罪や盗撮とドロドロした内容に見せかけ、
盗撮術に少林寺の修行並みの武術を組み込んだりと笑える演出で、
また、ヨーコを教団から救い出す場面では
日本刀アクションにビル爆破とテンポの良い大袈裟な見せ場を用意、
ほぼ全編にリズム重視の台詞と、音楽を配し飽きさせません。
昔、大人の恋愛小説の大家・渡辺淳一が「爆笑問題のススメ」にて、
「今の若い人は精神の恋愛を純愛と考えているようだけど、
体ごとぶつかっていくことにこそ純粋な愛がある(要約)」と
語っていましたが、当時の「世界の中心で愛を叫ぶ」を筆頭とする
純愛物語ブームに向けたものでした。
渡辺淳一が発すると妙に説得力のある言葉です。
「愛のむきだし」に対して園子温は「これは純愛映画です。」と
変態だらけの物語に対して言い切りますが、
そうとすれば渡辺淳一、セカチューに対する第三の純愛か?
ユウとヨーコの境遇は過去に受けた愛憎により歪みに歪み、
しかし歪んだヴァイオレンスな愛に走るかと言えば強く自制する。
敵視する相手を徹底的に罵り、慕う相手を徹底的に信じようとする。
カルト教団にヨーコを奪われた日からユウは彼女を救い出すため、
教団の命令でAV業界で働き、功績が認められると教団に入信し、
ヨーコの行方を追うために洗脳を交わして強靭な精神を培っていく。
さらに、教団によるヨーコの洗脳を説かねばならない。
教団に染まりつつあるヨーコをユウが連れ出し、
浜辺で砂だらけで格闘しつつ聖書から引用される
"愛"についての議論は圧巻であり、それはまるで
安保闘争時代を描いた映画に登場する論争の光景であります。
ちと長いですが、これでも私もキリスト教系大学に通ったので、
実際にそのシーンの台詞に登場する、
新約聖書/コリント人への手紙/13章を以下に引用しましょう。
-------------------------------------------------------
「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、
もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、
あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、
また、山を移すほどの強い信仰があっても、
もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、
また、自分のからだを焼かれるために渡しても、
もし愛がなければ、いっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。
しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、
預言するところも一部分にすぎない。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
わたしたちが幼子であった時には、幼子らしく語り、幼子らしく感じ、
また、幼な子らしく考えていた。
しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。
しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。
わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。
しかしその時には、わたしが完全に知られるように、完全に知るであろう。
このように、いつまでも存続するものは、
信仰と希望と愛と、この三つである。
このうちで最も大いなるものは、"愛"である。」
------------------------------------------------------
この長い言葉を感情剥き出しに、かつ詰まることなく読み上げる、
ヨーコを演じる新人・満島ひかりの圧倒的な存在感。
「この女優から目を離すな!」とキネ旬が推すのも頷けます。
これは幸せがいっぱいの、セレブな恋愛ではありません。
踏まれて蹴られて引き裂かれて絶望して泥を啜る様ななか、
それでも一途に相手を思い続け地べたを転げ回る人間が、
強靭さ崇高さを身に付けていく、愛のむきだし。
「遠回りしてしまったけれども、もう愛を恐れない」
教団のまやかしの愛に囚われてしまった、
妹・ヨーコを救出に向かう直前の、兄・ユウの強い言葉の奥から、
彼女への無償の愛で満たされた明鏡止水の如き心が溢れます。
ヨーコを救い出してもまだ神は試練を与えますが、
その試練も乗り越え互いを呼び、しかと握りあう手と手。
遠く離れていたからこそ生まれた絆は離れることは無いでしょう。
二人は恋人を越え、兄妹を越え、人と人として結びついた。
園子温のむきだしたものは、現代的な映像スタイルに包まれながら、
幸せの価値は掴む瞬間よりもそれに向かう道のりが高める、
二人を隔てる距離と障害を越えた先に強い絆が生まれる、
という古来から受け継がれる教訓を示したものではないでしょうか。
最後に劇中のシーンで極めて個人的に驚いたこと。
主人公・ユウの携帯電話は私の使用しているものと同じだった。
だから何だと。それについては、それだけのこと、
ということにしておきましょうか。
「愛のむきだし」についてのこと。
<物語>
主人公・ユウは敬虔なクリスチャンの家庭に育ち、
幼い頃に母を亡くし、神父の父・テツに育てられる。
ある日、テツはカオリという女性を愛し共に暮らすが、
根が遊び人のカオリは数ヶ月で家を出る。
以来、テツは人が変わり厳格になり、ユウに毎日懺悔を強いる。
テツは取るに足らない罪を罪と認めず、また嘘を見抜く。
ヤケになったユウは父に懺悔し愛されるため率先して罪作りに励む。
そして、女性の盗撮に挑んだユウは
神業の様な盗撮術を身に付けその道のカリスマになって行く。
だが、決してそれに性欲を抱くことは全くなかった。
ユウの心は、母と誓ったいつか巡り合うことを信じる、
「運命のマリア様」のためにあるのだった。
そして、運命の日は訪れた。
悪漢に囲まれた美少女女子高生・ヨーコ。
ユウはヨーコを助け、彼女こそ「運命のマリア様」と信じた。
そして、ヨーコも恋心を抱いた。
問題は出会ったとき、ユウは盗撮仲間達の罰ゲームで女装しており、
ヨーコが恋したのはその女装姿"サソリ"だったことだった。
しかも、ヨーコは父親のせいで世の男を敵と見做していた。
しかし、運命の歯車は複雑かつ急展開へと回りだす。
ヨーコは転校生としてユウのクラスへ。
さらに、父とカオリがヨリを戻し、ヨーコは連れ子だった。
二人が結婚すれば、ヨーコとは恋人ではなく兄妹になってしまう。
ユウは"サソリ"としてヨーコに接し、兄を慕う様に言い聞かせる。
おかげで、妹は兄に愛らしく接してくれるようになる。
恋した人に言われたから、の芝居ではあるのだが。
同じ屋根の下、隣同士の部屋で暮らしながら、
ヨーコへの気持ちを打明けられないばかりか、
彼女の想い人"サソリ"を自分で演じ、良き兄として振舞い、
残酷なる境遇に気が狂いそうになっていくユウ。
だが、これはまだ二人の試練の序章だった。
父を抱込みその信者達を丸ごと引き入れ様とする、
悪い噂の新興宗教"ゼロ教団"の妖しき美少女・小池によって、
父もカオリも、そしてヨーコも教団の信徒にされてしまったのだ。
その日から、教団からヨーコを救い出すための、ユウの戦いが始まる。
------------------------------------------------------
まず、上映時間が237分。3時間57分あるということ。
これまでの200分を超える映画と言えば?
「ベン・ハー(1959年版)」212分、「風とともに去りぬ」222分
「アラビアのロレンス」207分、「七人の侍」207分、などなど。
近年では「ロード・オブ・ザ・リング」3部作の各完全版など。
約7時間のイタリア映画「輝ける青春」や、
全作合わせて約9時間の「人間の條件」などもありますが、
スタッフ・キャストともに一級(もしくは後に名を残す)の
イメージが強く、いくらなんでも園子温を並べるのは躊躇う。
躊躇はともかく、見る方には鑑賞前から覚悟が伴います。
はずせばたちまち睡魔が襲ってくることは容易に想像できますが、
懺悔や罪や盗撮とドロドロした内容に見せかけ、
盗撮術に少林寺の修行並みの武術を組み込んだりと笑える演出で、
また、ヨーコを教団から救い出す場面では
日本刀アクションにビル爆破とテンポの良い大袈裟な見せ場を用意、
ほぼ全編にリズム重視の台詞と、音楽を配し飽きさせません。
昔、大人の恋愛小説の大家・渡辺淳一が「爆笑問題のススメ」にて、
「今の若い人は精神の恋愛を純愛と考えているようだけど、
体ごとぶつかっていくことにこそ純粋な愛がある(要約)」と
語っていましたが、当時の「世界の中心で愛を叫ぶ」を筆頭とする
純愛物語ブームに向けたものでした。
渡辺淳一が発すると妙に説得力のある言葉です。
「愛のむきだし」に対して園子温は「これは純愛映画です。」と
変態だらけの物語に対して言い切りますが、
そうとすれば渡辺淳一、セカチューに対する第三の純愛か?
ユウとヨーコの境遇は過去に受けた愛憎により歪みに歪み、
しかし歪んだヴァイオレンスな愛に走るかと言えば強く自制する。
敵視する相手を徹底的に罵り、慕う相手を徹底的に信じようとする。
カルト教団にヨーコを奪われた日からユウは彼女を救い出すため、
教団の命令でAV業界で働き、功績が認められると教団に入信し、
ヨーコの行方を追うために洗脳を交わして強靭な精神を培っていく。
さらに、教団によるヨーコの洗脳を説かねばならない。
教団に染まりつつあるヨーコをユウが連れ出し、
浜辺で砂だらけで格闘しつつ聖書から引用される
"愛"についての議論は圧巻であり、それはまるで
安保闘争時代を描いた映画に登場する論争の光景であります。
ちと長いですが、これでも私もキリスト教系大学に通ったので、
実際にそのシーンの台詞に登場する、
新約聖書/コリント人への手紙/13章を以下に引用しましょう。
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「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、
もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、
あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、
また、山を移すほどの強い信仰があっても、
もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、
また、自分のからだを焼かれるために渡しても、
もし愛がなければ、いっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。
しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、
預言するところも一部分にすぎない。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
わたしたちが幼子であった時には、幼子らしく語り、幼子らしく感じ、
また、幼な子らしく考えていた。
しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。
しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。
わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。
しかしその時には、わたしが完全に知られるように、完全に知るであろう。
このように、いつまでも存続するものは、
信仰と希望と愛と、この三つである。
このうちで最も大いなるものは、"愛"である。」
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この長い言葉を感情剥き出しに、かつ詰まることなく読み上げる、
ヨーコを演じる新人・満島ひかりの圧倒的な存在感。
「この女優から目を離すな!」とキネ旬が推すのも頷けます。
これは幸せがいっぱいの、セレブな恋愛ではありません。
踏まれて蹴られて引き裂かれて絶望して泥を啜る様ななか、
それでも一途に相手を思い続け地べたを転げ回る人間が、
強靭さ崇高さを身に付けていく、愛のむきだし。
「遠回りしてしまったけれども、もう愛を恐れない」
教団のまやかしの愛に囚われてしまった、
妹・ヨーコを救出に向かう直前の、兄・ユウの強い言葉の奥から、
彼女への無償の愛で満たされた明鏡止水の如き心が溢れます。
ヨーコを救い出してもまだ神は試練を与えますが、
その試練も乗り越え互いを呼び、しかと握りあう手と手。
遠く離れていたからこそ生まれた絆は離れることは無いでしょう。
二人は恋人を越え、兄妹を越え、人と人として結びついた。
園子温のむきだしたものは、現代的な映像スタイルに包まれながら、
幸せの価値は掴む瞬間よりもそれに向かう道のりが高める、
二人を隔てる距離と障害を越えた先に強い絆が生まれる、
という古来から受け継がれる教訓を示したものではないでしょうか。
最後に劇中のシーンで極めて個人的に驚いたこと。
主人公・ユウの携帯電話は私の使用しているものと同じだった。
だから何だと。それについては、それだけのこと、
ということにしておきましょうか。
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