映画の未来のために 「ノット・レイテッド ~アメリカ映倫のウソを暴け!~」2011年01月23日 23時16分37秒

さあ、未公開映画祭!
残すところあと3本です。

謎の組織アメリカ映倫「MPAA」の実態に迫ったドキュメンタリー
「ノット・レイテッド ~アメリカ映倫のウソを暴け!~」
についてのこと。


■「松嶋×町山 未公開映画祭」作品紹介
 http://www.mikoukai.net/023_this_film_is.html
原題:This Film Not Yet Rated
2006年 イギリス・アメリカ (97分)
監督:カービー・ディック


MPAA(アメリカ映画業協会)はアメリカで公開される映画について、
性表現、暴力表現、ドラック、禁止用語などの点から公開前に審査を行い、
「NC-17」(18歳以上のみ観賞)といったレイティングを行っています。

MPAAの前身となったMPPDA(アメリカ映画製作配給業者協会)時代から、
政府の検閲を防ぎ、また性描写表現などを抑え健全な映画制作を良しとして、
倫理規定を設けてきましたが、1968年になると製作側が任意に申請する
現在のレイティング・システムが誕生しました。

任意、とはいってもアメリカ国内ではレイティングを受けないと、
公開できる劇場が極端に限られる上に、作品の宣伝もできず、
そのようなDVDを置かない店(主にウォルマート)もあり、
観客の目に触れる機会が非常に限られてしまうことになるため、
劇場公開・DVD販売をかたちにするにはほぼ強制的に受けることに。

そこで長年の問題として多くの映画関係者から疑問の声があがるのは、
MPAAの審査についての公平性・透明性・正確性・統一性です。
レイティング審査のメンバーが一切明かされないこと、
考え方や指示が明確ではないこと、過去の作品と比較しないこと
などが指摘され、またインディペンデントに明らかに厳しいことから、
その審査に不服を申し立てる監督達によって度々論争となっています。

この映画では、「ボーイズ・ドント・クライ」のキンバリー・ピアーズや、
「アメリカン・サイコ」のメアリー・ハロンらが、
自作の審査の際に抱いた疑問を証言しています。

確かに審査を受ける側からすれば、子供の教育等のためとは言え、
自分の意図と作品の否定とも言える結果を下した人間が、
正体不明だとすれば、当然のことながら憤りも抱くでしょう。

作品を提出するときには満を持しての提出となるわけですから
このシーンを削りなさいという指示が出ただけでも許せないでしょうし、
その部分が作中の核を形成しているが表現上は好ましくないなどと、
きちんとした「目」を持っているかは疑わしいこと甚だしいのでは、
作り手としては不誠実と受取っても仕方がない。

大体、「アウト・フォックス」などでもそうですが、
公明正大を自ら高らかに謳っている組織はその実態は真逆を行く。
結果が不公平なことよりも、正しいということを明言していながら、
しゃあしゃあと行うことに余計苛立ちを覚えるのです。

この映画はカリフォルニアのある建物に出入りするレイティングメンバーを、
監督が探偵を雇って正体を暴こうと調査していくことに面白さがあります。
なんでもっと早くこんな面白いことを考え付かなかったのか?
いや、やろうとしても誰も行動を起こすに至らなかったのでしょう。

建物の前で張込みを決行し、昼休みに外出する車を尾行し、
車の所有者を調査し、メンバーと思われる人物のゴミ袋を漁り証拠を見つけ、
委員会のメンバーを洗い出し匿名を条件にインタビューを試みるなど、
ミステリー映画として見ても気分が盛上がります。

さらに、監督が「この映画」を実際にレイティング申請に出して、
審査結果についての交渉と、上訴委員会への不服申し立ても公開。
絶対非公開のレイターと上訴委員会メンバーの素性を、
映画のクライマックスで一挙公開するという痛快さ!

どうだ見たか!という意気が伝わってきて微笑ましい。
(打上げ花火の映像まで挿入するのだから)
そこからは、権力からの影響を回避するためという理由が、
全く信用できないものだったことが暴露されます。

当然のことながら、この映画はレイティングを受けることができずに、
レイティング無しでの公開となり、苦戦を強いられたと言います。
その後、メンバーの公開と過去作品との比較は実施される様になったそうです。

この映画は主に同性愛を含んだ性表現について多くの時間を割いていますが、
後半では暴力表現についての不公平性も投げかけます。
愛するもの達の性行為による愛情と喜びを現したシーン、
戦争に行った兵士達のありのままの状況を映し出すためのスラング、
ときに刺激的でときにリアルであぶない表現を含んだシーンも、
作り手の深い意図が籠められていることを改めて教えられます。

とくに兵士達から戦場の現状を伝えてくれる様に託された作品には、
平和への願いと人間の愚かさと政治への怒りと深い示唆があるのに、
それを読み取ろうとせずに、表面的に捉えた狭量の視野で判断することは、
裸が出てくるだけで興奮する様な子供と変わらないのではないでしょうか。

我々観賞者の側も、厳しいレイティング表記を見つけたときには、
その映像ばかりに目を奪われず、作品が囁く声に耳を澄まし、
ここに至るまでに凄まじき闘争が繰広げられたことに、
まずは畏敬の念を抱こうではありませんか。

理想に続く長い道 「バーチ通り51番地 ~理想の両親が隠した秘密~」2011年01月22日 23時56分08秒

未公開映画祭作品、あと4本です。

「バーチ通り51番地 ~理想の両親が隠した秘密~」
についてのこと。


■「松嶋×町山 未公開映画祭」作品紹介
 http://www.mikoukai.net/026_51_birch_street.html
原題:51 Birch Street
2005年 ドイツ・アメリカ (90分)
監督:ダグ・ブロック


この映画は、結婚してもし上手くいかなければ離婚すればいいや、
と思う人達には理解し難いでしょうか。
マイクとミナは仲睦まじいごく普通の夫婦だった。
住まいはニューヨーク郊外の庭付きの家、近隣からも慕われ、
三人の子供たちとの親子関係もとくに大きな問題はなかった。

第二次世界大戦の終戦後まもなく結婚した二人は、
離婚をすることなく50年目の結婚記念日金婚式を穏やかに迎えた。
親しい人々に囲まれて祝福される二人の姿は、
アメリカが理想とする古きよき時代の夫婦の姿だった。
結婚式のビデオ制作などの仕事をしている長男ダグは、
両親の金婚式のホームビデオを撮影することにする。

ダグは人よりも多くの、男女の出会いを見てときには別れの話を聞き、
そのためか結婚生活についてはナイーブなところがあるかもしれない。
彼の捉えた映像には晴れやかさと切なさが同居しているかの様だ。

カメラに穏やかな微笑で物静かに語りかけていた白髪の母は、
それからまもなく、永い眠りについた。
祝福ムードの覚めやらぬなかでの突然の別れは寂しくも、
幸福のうちに抱かれたままの幕引きの様でもあった。

ダグは家族の記録を残していこうとホームビデオの撮影を続けていく。
母との良好な関係の一方で、父とは確執はないが交わす言葉は少なかった。
まあ父と息子の間のごく自然な複雑な感情で、なんら悪いことではないが、
ダグはその空白を埋めるように父と不器用な会話を交わしていく。

しかし、なんと父・マイクはミナの葬儀から3ヶ月の後に再婚をする。
相手は35年前に父と出会ったという女性・キティだった。
おまけにフロリダに引っ越すといい、母との思い出の家を整理し始める。
思いもよらない幸福に周囲の人々は沸き立ったが子供達は複雑だった。
父の態度は母に対するそれよりも全く異なっていた上に、
滅多に無い幸運とはいえ、母といるときよりも幸せそうだったからだ。

一方で、ダグは再婚相手のキティが、最近突然現れたのではなく、
自分の成人式にも招かれた程の交流があったことが気になっていた。
父は母に誠実だったのだろうか?そして、母の日記が開かれる

キティに数十年の間、マイクは好意を持っていたけれども、
マイクはミナとの結婚生活を壊さないために努力を尽くしていたこと。
そして、ミナは自分の不満を押し込め、良い妻であり続けようとしたこと。

二人は結婚に対する責任感は強かったと思います。
いや、責任というよりも、離婚という選択肢がすでに逃げ道にすら存在しない。
結婚は二人だけのものではない、互いの親類がいて子供達がいる。
祝福した友人知人へも、関わった全ての人々に対する責任がある。
それが時代であり、かつての結婚は、日本でもアメリカでもそうだったはず。

マイクは定期的にフロリダに足を運んでいたといいます。
それはキティに会いに行ったのかもしれませんが、
そうであっても互いに分をわきまえていたと言えるでしょう。
僕はかつての日本に存在したという赴任地でのお世話をする存在を、
暗黙の了解である不可侵領域としていた風土を思い出します。
それ以上のものを求めず、元の生活を壊すことは決してしない関係。
それは不誠実な関係とは根を別にするものであると思う。

一方で、ミナの膨大な量の日記には不満が閉じ込められていた。
あるいは、そこでのみ解放されていたとも言えるかもしれません。
カウンセリングに通い、担当者に熱い恋心を抱く感情までも。
旅行に出かけ、地域の食事会などの会合への出席は頻繁だったのは、
家庭を独りで背負っていたことからの反動もあるのかもしれない。
キティの存在のおかげで、マイクを疑ったときもあった。

様々な出来事よりも感情を乗り越えて二人は54年を過ごしました。
他の夫婦と比べてマイクとミナの間で特徴的だったのは、
二人とも内面を晒さないことだったのではないでしょうか。
普通はどちらかが開放、どちらかが閉鎖しており、
だからこそお互いのバランスを保っている。
ミナの手記と、マイクの言葉選びに耳を傾ければ、
二人が思考を深めていく人間であることがわかります。

50年を経て二人は人生を達観した様な目で見つめ返し、
詰込んだ言葉で次代へのメッセージを語ることができる。
しかし、結婚当初からそうした思いを持つことは叶わないはず。
仮にキティと最初から結婚していても、上手くいかなかったかもしれない。
お互いが積み上げたものがなければ現在の想いには至らないのではないか。

では、ミナとの結婚はキティに続く通過点ということなのか。
そういった思いは息子のダグにはあるのだと思います。
それは誰にもわかりませんが、子供たちをはじめとして、
マイクとミナで築き上げたものもあるなら無意味なものではありません。

これはある一組の奇妙な夫婦と結婚の話ではありますが、
誰にでも普遍的に訪れるであろう想いが詰まっています。
結婚のこと、人とのコミュニケーションのこと、赦しと諦め、
寛容と忍耐、幸福と不幸、学ぶことが幾らでも出てくる。

理想、と思われているものには隠された真実が存在することがありますが、
しかし隠されたものは溶け込ませているからこそ理想なのかもしれません。

極限状況下の想い 「収容所のラブレター」2011年01月21日 23時18分09秒

いよいよ、未公開映画祭作品も残るところ5本になりました。
公式サイトでは視聴期限が1月31日まで延長されました。
(作品購入は1月24日まで)


あるひとつの恋を追い、その背景の歴史を映し出す
「収容所のラブレター」
についてのこと。


■「松嶋×町山 未公開映画祭」作品紹介
 http://www.mikoukai.net/031_steal_a_pencil.html
原題:Steal A Pencil For Me
2007年 アメリカ (94分)
監督:Michele Ohayon


時は第二次世界大戦。欧州はホロコーストに向っていくなかで、
オランダのユダヤ人夫婦、ヤーブとマーニャのうち、
夫のヤーブがイナという少女に恋をしています。
しかし、ナチスの侵攻が始まり三人は同じ収容所に入れられることに。
ヤーブとイナは収容所のなかで密かに会い、手紙を交わし、
ともにこの戦争を生き延びることを誓います。

あなたは自分が困難な状況下にあるときに、誰か想う人がいるでしょうか。
自分の鋼鉄の不屈の意志だけで苦境を乗り切る人もいるけれども、
誰かのことを想うことで、ギリギリで踏ん張る力が沸くものではないか。
なにもアニメの様な起死回生のスーパーパワーが宿るわけではありません。
ほんの首の皮一枚、蜘蛛の糸一本の様なささやかでか細い力です。

別にその人は恋人や伴侶に限ったことではありません。
親兄弟でも友人でも、尊敬する人たちでも良いのです。
また、自分が踏ん張るのでそれはときに一方的な想いであっても良いわけです。
自分を鼓舞する力であるときもあれば、安らぎをもたらす力のときもある。
人が人を想うことから出る力は小さくとも想像以上の影響力を持つ。
その繋がりを軽んじる者はやがて滅びる。ナチスは人間を否定した。

愛する人がいるということは苦境に耐え得る力になるということを、
ヤーブとマーニャの人生は証明したと思います。
20世紀の歴史で最悪の地獄のひとつを彼らは生き延びたのですから。
生き延びたことそれ自体が、彼らの人間をその絆を否定して引き裂いた
ナチスに対して打ち克てた勝利の証と言えましょう。

ただ、ひどく奇妙なことと言えばその勝利者たちは、
既に結婚していた夫婦の夫君が娘の様な年頃の少女に恋をして、
戦後に細君と離婚して、晴れて生涯を誓い合ったということでした。
そこが、この話の美しさや素晴らしさとして手放しで讃えることを
躊躇わせるというか多少の疑問を抱かせる所以です。

ヤーブとマーニャは仮面夫婦だったとイナは言い、
ヤーブは細君を気分屋で考えがよくわからなかったと言います。
マーニャは離婚後も二人と交流を持っていたけれども再婚はしなかった。
夫君の妹には、彼を愛していると語っていたと言います。

マーニャのその後は幸福なものだったのかその心中を考えると複雑です。
ヤーブとイナのやりとりした手紙の中にマーニャのことが登場し、
一方でマーニャがイナのためにパンを分けた出来事などを聞くと、
一層そのもやもやとした想いが増していきます。

このドキュメンタリーはヤーブとイナのラブストーリーを追いますが、
それとともに映し出される当時の映像も忘れてはなりません。
強制収容所の光景、死屍累々と遥か向こうまで続く死体の山、
引きずられていくユダヤ人、ユダヤ人を移送する列車の出発など。
収容所内での労働としてダイヤ加工の様子も登場します。
(彼らの職能を利用した試み、「ヒトラーの贋札」を思い出します。)

ヤーブとイナ、その親族を通じてレジスタンス活動について、
イナの親兄弟、アイデンティティの輪郭も浮かび上がってきます。
日々悪化していく収容所内の生活では、シラミや腸チフスとの格闘、
食糧の確保と物資の争奪、その凄惨な様子がひしひしと胸を刺します。

まず、それらを耳に刻み目に焼き付けなければなりません。
これは荒野に咲く小さな花を映した映画ではありますが、
映画が訴えかけているのは、その荒野でもあるのですから。

あの大戦を生き延びたユダヤの人々は、その歴史を風化させないために、
日々どこかで、その体験を学校などで語り継ぐ努力を続けています。
ヤーブとイナもまた、少年少女達に差別がいかに悲惨な状況を生むか
語りかけていきますが、それは体験者としての使命感だけではなく、
マーニャを犠牲にしたことへの償いの念も籠めているのかもしれません。

この話は決して美談ではありません。
自分自身が語っているように恋愛などしている状況ではありませんし、
誰かが最終的に犠牲になることが定められた三角関係でもありました。
何よりも、取り巻く状況が遥かに暗黒に包まれていました。
愛よりも以前に、もっと根源的な生きることそのものだったとも思えます。

この映画は事実の記録だけではなく、人々の想いが焼き付いている。
本当に貴重な映像と証言とは単なる資料ではなく、その奥のもの。
これからの子供達へ、自分がどのような状況下におかれたとしても、
人を想う心は忘れないでもらいたいものであります。
Loading