復興のため経済まわすぜ! 青森・弘前へ 青函連絡船八甲田丸2011年05月04日 23時17分06秒

かつて、青森と北海道を結ぶ海底トンネル、青函トンネルが無い時代。
人々は船で行き来し、船は青森と函館を結ぶ「青函連絡船」と呼ばれました。
1988年に連絡船は役目を終え、青森から最後に発った八甲田丸は、
現在はその歴史を伝える展示施設になっています。

■青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸公式ホームページ
 http://www7.ocn.ne.jp/~hakkouda/hakoindex.html

昔、連絡船の最終航行がニュースになったときはまだ小学生でした。
皆が別れを惜しんでいたのがなんとなくですが、思い出されます。

その八甲田丸は、ワ・ラッセからすぐ見えるところにあるので、
足を伸ばして行ってみました。僕は中に入るのはこれが初めてです。

八甲田丸前に、青函連絡船戦災の碑が建てられています。
第二次世界大戦中に米軍の爆撃によって連絡船が撃沈されており、
犠牲になった方々のご冥福を祈り平和への願いをこめられています。
この碑はまだ新しく2005年、戦災から60年目に建てられたということです。


戦災の碑の横に立つ、現在は記念碑になった可動橋・車両搬入口の跡地。
連絡船で往来していた頃は、ここから貨車を青森駅から搬入していたそうです。
重厚な外観が歴史の重みを感じさせますね。



連絡通路から見える、黄色と白が海に映える八甲田丸。
貨車を積み込んで運ぶくらいですからさすがという大きさです。
中は4階構造になっていて思っていたよりもかなりの見ごたえ。

2Fの受付スペースから入って、まずは3Fから。
展示室になっているこの階は、当時の乗客の服装や行商の道具、
意匠の鮮やかな時計やガラス工芸が展示されています。
歴代の連絡船のミニチュアや、資料写真も数多く展示されています。

説明によると1908年、初めての青函連絡船も就航当時、
4時間程度で渡ったそうで、当時の技術でも優秀な船だったそうです。
タービンという言葉が「速い」という意味で流行語にもなったそうですよ。


窓側のこのスペースは就航当時のグリーン船室客席の様子を、
天井の高さやシートもそのまま残しているそうで、実際に座ることができます。
座り心地は思っていたほど悪くありませんが、波で揺れたかもしれませんね。

寝台室には入れませんが、ビップルームっぽい雰囲気が伝わってきます。
いまや、はやぶさグランクラスの時代を観たらどう思うでしょうか。

船長室には、後ろ向きの船長のマネキンがあります。
誰もが一瞬、「人がいた!」と、驚くと思います。
入室はできないので、顔を覗き込むことも出来ないのですが・・・。
ちょっと、振り向くと顔が骸骨、というパターンに見えなくないですかね?
(↑そのパターンももう古いかも・・・)

4F。ああ憧れの操舵輪やコンパスが満載の操舵室。
思わず、面舵いっぱーい!ヨーソロー。
双眼鏡からは桟橋の方角を覗くことができます。

船の舳先の部分。丁度、鳥が止まっているのが見えますね。

1Fは、3F4Fとはうって変わってパイプや柵がひしめく薄暗いスペース。
ここは鉄道車両を搭載していたスペースだそうです。
現在は廃車になった車両が展示されています。
僕の中で「特急電車」と言えばこの車両なんですねー。
赤い羽の様なデザインとやや膨らんだ前部の形が良いです。

こちらはディーゼル機関車。これは凸型の形が良いのですが、
ちょっと柱や壁の影に隠れてよく見えないのが残念。

B1Fに降りると統括制御室、エンジンルームと発電室です。
いいなあ!このいかにも機械らしいメーターの数。松本零士みたい。


発電機と、1基1600馬力×8基というエンジンルーム。
こ、これ、こんなにあったらどれだけの音を出すのでしょうか。
現役時代はこれがうなりをあげて頑張っていたんですね。
想像して眺めているだけで圧巻ですねー。

ちょっとした機械のなかにもわくわくするものがあります。
連絡船と人々の歴史文化に触れるのみならず、
当時の誇るべき技術を振り返る意味でも良いところでした。
何より、生活の足に、旅行の行程に、経済活動の要にと、
乗った人達それぞれの思いがまだ籠もっている様に感じられます。

メモリーを未来に伝えるため、この八甲田丸が保存されますように。
これからも新しいメモリアルが生まれてきますよう願いを籠めて。

さあ、次はより経済を回すお土産行脚です!

コメント

_ 慧 ― 2011年05月07日 22時52分41秒

なつかしい画像 感謝です。

私、中・高と青森に住んでいました。高3のときに東北新幹線が盛岡まで開通。
まだJRではなく、「国鉄」の時代。

青函連絡船にも何回か乗りました。
独特の音の汽笛。  録音ながら、出航時に鳴る銅鑼。 煙突のマークは「JNR(国鉄)」。

中学の修学旅行で北海道へ向けて乗りました。3年生が9クラスだったから船内は満員。
外海に出るとイルカが並走することがあると言われていましたが、見えたのは時折海面から飛び出すトビウオのみ。
陸奥湾から海峡に出ると波は荒く、大きな船体も結構な揺れです。
船酔いする者が続出、それを見た人も「感染」するもので、しばらくたつとトイレは満員、船内は
すごいことになりました(苦笑)。

船は到着してもすぐには接岸しません。船尾を埠頭のレールにつなぐため、舵を一杯に切って
180度回らなければなりません。港にはタグボートが待機していて、船尾の脇に食いつくと、
ぐいぐい押して手伝っていました。

洞爺丸の事故以来、安全面では非常に改善され、貨車の搬入口は密閉構造となり、
浸水の危険が解消されましたし、少し海が荒れるとすぐに欠航するようになりました。
現在展示されている船は「貨客船」ですが、この他に、客室を持たず、甲板上にコンテナを
積める貨物専用船(十勝丸)もありました。

社会人になってから、バイクのツーリングで九州や北海道に長距離フェリーに乗りましたが
船体の鼓動がこの船を思い出させてくれました。

新幹線の開通前は東京から北海道に行くには早朝発夕方着の昼行特急プラス連絡船の寝台か、寝台特急で早朝着で連絡船の座席を選ぶかのパターンがあり、4時間しか寝られない船の
寝台はあまり人気がなかったようです。

現在、貨物列車は青函トンネルを通っていますが、新幹線が北海道まで延びると、トンネルは然
新幹線用になるそうです。そうなれば貨物はどうなるのか。もう1本トンネルを掘る余力はなさそうだし、もしかしたら連絡船が復活するのでしょうか・・・・

_ 河永 ― 2011年05月08日 22時36分34秒

>慧さん

大作を頂きましてありがとうございます!
僕は実際に乗ったことはついぞありませんでしたが、
他に乗船された方々もいろいろな思いがあると思いますよ。
"残す"ということが改めて深い意味がある様に感じられました。

新幹線が通ったら貨車はどうするか、確かにそうですね!
高速で通過可能・安定十分な貨物列車が作られるのでしょうか?
連絡船の復活、ということになったら夢がありますね。
でも、もしそうなっても貨物だけで人は乗れないのかな・・・?

_ 慧 ― 2011年05月14日 02時15分38秒

再び。

河永くん、さすが「ロボット大好き星人」だけあって、
メカの描写は生き生きとしていますね。

映画 「タイタニック」でも スクリューが回り出し、最後に船長が加速の命令を出し、
実際に船が速度を上げるまでの船内の描写がしっかりとなされていたのを思い出します。
船舶特有の命令伝達の機器。煤まみれの男達がうごめく巨大なボイラー。
上下する巨大な蒸気エンジンのアーム。

男心をくすぐる演出でした。退屈そうにディカプリオの出番を待つ彼女を脇に、
内心わくわくしていた彼は多かったのではないでしょうか。

_ 河永 ― 2011年05月17日 01時33分53秒

>慧さん

あ、そんなに違いますか?(笑)

ジェームズ・キャメロン先生もメカフェチですからね。
あの船のホールの階段上にあった大時計もしかり。
昔作られた映画ではちょこんとそっけなくも置かれてますから。

最近はなんでも流線型・小型化の洗練時代ですが、
産業革命・大艦巨砲時代の無骨さの方が、
"いかにも"メカらしいと思います。

「アバター」で僕が熱い視線をおくったのも、
パワーローダーの様なロボたちでした。

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