真に強き愛 「ザカリーに捧ぐ」2010年12月27日 23時18分16秒

未公開映画祭の39本中、最も支持を集めている映画
「ザカリーに捧ぐ」についてのこと。

■「松嶋×町山 未公開映画祭」作品紹介
 http://www.mikoukai.net/002_dear_zachary.html
原題: Dear Zachary
2008年 アメリカ (95分)
監督: カート・クエンネ

2001年、ペンシルヴァニアで医師のアンドリューが殺される。
第一容疑者として元恋人シャーリーの名があがるが、彼女はカナダへと渡る。
アンドリューの両親は彼女を追ってカナダへ入国するが、
殺す人間を殺したのだから危険性は無いとする現地の裁判に呆然とする。
さらにシャーリーはアンドリューの子供を妊娠・出産してしまう。
ザカリーと名付けられた赤ん坊を、アンドリューの両親は
息子の血を受け継ぐ自分達の孫として育てる決意を固める。
しかしその日から、殺人犯シャーリーとの戦いが始まる・・・。

この事件は最近、バラエティ番組などでも取り上げられたため、
僕は作品を見る前に事件の内容と結末もある程度知っていましたが、
映画は両親の視点に寄り添い、また、アンドリューの友人である
撮影者・監督のカートの視点で追い、慈しみと悲痛な想いが溢れていきます。

殺人者が野放しにされ、愛する息子の血を分けた子供が育てられている、
両親のその苦しみは想像出来ないほど耐え難いものであったはず。
その殺人犯・シャーリーは罪を悔いているわけでもないのだから。
さらに、彼女はいつ爆発するか分からない精神面の不安定性を抱えている。

カナダというのは日本ヘはアメリカほどに情報が入ってくるものではなく、
僕が観てきたカナダはマイケル・ムーアの「シッコ」等での医療制度など、
比較的住み良いというか、少なくとも制度面では悪い印象はありませんでした。

しかし、この映画を観るとこの事件に限らず、カナダの司法制度、
裁判進行の荒が目立つ、制度の酷さを突きつけられることになり、
いざというときにはかなり危険な国なのかもしれないと思わざるをえません。

それを世に知らしめるため、訴えるために完成を見たこの映画は、
元々は、ザカリーが大きく成長したときに、アンドリューのことを教えるために、
彼を愛した友人知人達の証言を集めるために始められたものだった。

その人を知るには本人よりも友人に目を向けよ、と言いますが、
まさに、アンドリューの友人達の言葉はそれが正しいことを物語っています。
ひとつひとつが故人を愛していることが伝わってきて、
こんなに愛される人間がいるということに気持ちが熱くなっていく。

いや本来、飛びぬけて優れた人格者でなくとも、
人は皆から愛されているものであるはずではないだろうか。
一人の人間の命を奪うということは、その人だけを殺すことではない。
親を兄弟を友人の人生に穴を開け、大きな傷を残し、
ときにはそれから生きていくための気力すら奪い取ることに他ならない。
決して、人は一人で二人で生きているわけではないのだから。

シャーリーの歪んだ想いを愛ゆえと認めることはできない。
彼女はアンドリューへの自分の思いを制御することができず、
ただ自分の欲望の赴くままに暴走し罪を犯しその罪も自覚していない。
人を思いすぎるが故に愛は人間を狂わす諸刃の剣となりうるが、
しかし狂った想いはもはや愛と呼べるものではない。
愛というならば自分のための愛であり、相手のための愛では無くなっている。

不屈の意志で戦った両親は大切なものを二度奪われる。
しかし、それでも彼らは倒れることはしなかった。
彼らは他の悲劇が繰り返されないように現在も戦い続けている。

その行動は全て、アンドリューへの愛、ザカリーへの愛、
強い愛の力が源となっているのではないでしょうか。
この映画も多くの愛によって支えられ満ち溢れている。

やたらと愛と言ってしまっては申し訳ありませんが、
それが絶え難き道でも進むことを止めない力の原動力。
それは軽々しく賛美することを抑える崇高で厳粛なる深きもの。
やはり愛とはそういうものではないでしょうか。

僕の好きなある本の言葉を引用し、ザカリー君に捧げさせていただく。
忘れないでくれ。皆が君を愛していることを。
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