自由の書き手2007年09月04日 22時47分34秒

更新がサボリ気味ですみません。
おかげで8月のネタがまだ残っていたりします。

ところで、新聞の映画欄に「泉コロナシネマワールド」の文字が。
何時の間にそんなものを。10月8日オープンですって。
ちょっと嬉しいような、それほどでもないような。
この話題についてはまた後日。

今夜はアカデミー女優ヒラリー・スワンク主演
「フリーダム・ライターズ」です。

<物語>
1994年のロス暴動直後のロサンゼルス郊外に建つウィルソン公立高校。
人種間の軋轢で生徒が対立しドラッグや銃が蔓延するこの学校に
教育の理想高き新人女教師エリン・グルーウェルがやってくる。
同僚教師からはすぐに挫折すると冷めて観られ、
生徒達には振り回される毎日だったが、
ある事件をきっかけに生徒達との対話が生まれていく。
そしてエリンは生徒一人一人に対して、
聞いて欲しいことをノートに書くように提案する。
「フリーダム・ライターズ」の始まりであった。


問題児の生徒達を教師が更正させていく、
という一見もう見飽きたような話ですが、
観ればありきたりな青春ドラマではない重みがあります。

ある意味でその職種に染まっていない無垢が幸いした例として
「エリン・ブロコビッチ」を髣髴させましたが、
ミス・G(劇中でのエリンの呼び名)の教育法が
経験を積むにつれ、適度な距離を保ってきます。
暑苦しい熱血で押すのでもない、つきはなすでも無い、
キーとなる生徒達のノートにしても、あくまで提案であり強制ではない、
最終的な決定が生徒に委ねられている、
あるいはのせるのが上手いのであります。

ある事件とは黒人の顔を厚い唇を強調して描いた落書きを発見し、
「昔、ナチスがユダヤ人の鼻を大きく描いたことと同じよ」
と軽い気持ちの差別が深い傷を残すことを説いたにも関わらず、
生徒のほぼ全員がホロコーストを知らなかったということです。

生徒達は満足な本を読まされず歴史を知らない、
そこでエリンが学校や教育委員会に良い本を読ませるよう掛け合ったり、
支援が得られないと悟るやパートで生徒の本代を稼いだりと
実に頭の下がる奮闘の結果、生徒も更正し
歴史や読書への関心も深まるという筋ですが、
これは現在日本の教育が直面している問題と大差ありません。

社会系科目選択制や偏った読書指導は
かつて日本が戦争をしたこと、ヒロシマ・ナガサキ原爆の悲劇
それらを知らない若者が増えている要因でもあるでしょう。
そして日本もまたこんな異端児が評価されない国です。


もう一つ観るべき点、これはアメリカの抱える問題ゆえのものですが、
10代を取り巻く過酷な人種間の対立が細かく描かれている点です。
「16歳になりたい」と言う生徒の言葉は、
まさに16歳になれずに本当に死んでいく可能性があることを意味します。

この人種問題の描き方についてはアメリカのイラク政策を窺わせます。
(と、なんでも結びつけるのはよくないかもしれませんが。)
まず着任したばかりのミス・Gは強権的に理想を押し付けます。
教室の真ん中に線を引き「新しい国境線よ」と言う様がまさにそれで、
しかし、結局のところ自分の価値観へ多種多様の生徒を
はめていくことなどできず、小競り合いはなくなりません。
そうして最終的に辿り着いたのは、一人一人の話を聞き皆で考える、
同じフィールドで対話をするということでした。

問題生徒と教師との人間再生のドラマ、
昔からあるテーマですが、今の時代を的確に写し、
危機感と希望のそれぞれを提示してくれるものは深い印象を残す、
本作はまさにそれにあたる秀作です。

深淵よりの声2007年09月11日 23時00分58秒

何やら職場の周囲が騒がしくなりプライベート時間が不足する毎日。
そんな中、三連休は伊勢に旅行して参ります。
その前に溜ったネタを消化。

今夜は「インファナルアフェア」三部作の監督アンドリュー・ラウが
ハリウッド進出作品、リチャード・ギア主演「消えた天使」。

<物語>
長年に亘り性犯罪者の再犯抑止のため監察官として務めたバベッジ。
しかし、行き過ぎた捜査を行う傾向が強いため
職場の仲間達は手を焼き、退職迫る最後の仕事として
後任の若き女性監察官アリソンの指導を任せられる。
そのとき、10代の少女失踪事件が起こり、
バベッジは監察対象の前科者の中に誘拐犯がいると睨む。

物語の肝はバベッジが「性犯罪者は更正しない」という性悪説の下、
殴る蹴るの狂気の世界に入り込んでいく様を、
アリソンの新任のフラットな視点と女性の視点から
不安気に追っていくというものであります。

この手の筋の場合、少し前に流行ったのは主人公=犯人というタネ。
しかし本作は「深淵を覗く時、深淵もまた覗き返している」という、
犯罪者を見る側の心のうちに潜む同質性を問うものです。

法においては力の行使は職務上正当な理由があれば
罪に問われることはありません。
犯罪者の暴力と監察官あるいは刑事のいわば正義の鉄鎚。
それは法律上で区別されまた行使の理由によっても分けられます。
しかし、人間の内面の奥底に迫った時はどうなのか?

映画は一応バベッジの行為と判断が正しかったことで結末を迎え、
彼が狂気の犯罪者と違うと、二者を決別させます。
このシーンは「セブン」でブラット・ピッドとケビン・スペイシーが
対立したシーンを思い起こさせ、あれを闇と言うならば
本作は光の側を若干向いた気がします。

しかし、すっきりしないものを残すのはやはり、
バベッジの活躍に快感を感じた不快感によるものだと思います。
東洋人の専売特許ではないと信じていますが、
やはりアジアの監督ならではの手腕ではないかと思いたいです。
正直なところ「傷だらけの男達」よりも面白く、
「インファナルアフェア」でも描く二対の人間の対比の
一つの亜種ではないでしょうか。

リチャード・ギアはこのタイプの作品は「プロフェシー」ぐらいですが、
思ったより悪くはありません。

木々に包まれ2007年09月12日 22時28分18秒

どうも台風も発生し、三連休の旅行は天気は期待できない様子。
雨の日のプランBを用意しておかなくては。

さて今夜はカンヌ国際映画祭グランプリ受賞「殯(もがり)の森」です。

<物語>
奈良県の山間部のグループホームで介護を受けながら暮らす
しげき老人は死んだ妻の思い出を忘れられずにいる。
新任介護士の真千子もまた事故で子供を亡くしたことが
心の傷として深く残っていた。
互いに失った家族の思い出を引きずりながら、
ある日、二人はしげきの妻が埋葬された森へ墓参りに行く。

墓参りの道中でしげきと真千子は深い森へ迷い込んでいき、
雨風に遭遇し遭難寸前となる中で、生きることを取り戻す物語。

森は地球の自然が形成されたときから
生と死が同居することで成り立つ場所でした。
動物が死に、土へ還り、その土と骸から植物が育ち、
木を食して動物が生き、また動物が死に・・・。
いわゆる食物連鎖の循環です。

ですから死者の骸を森へと運ぶことは山では至極自然のことであり、
木々の自然とともに人間の生活があった時代では
人間の死と生もともに円環を描いていたのだと思います。

しかし現代では人間は木々から離れ無機物の囲みで生活をしています。
骨は火葬され石室へ入れられる、いや現代ではそれすらも
ビルのフロアの貸し金庫室のような場所へ入れられるとも聞きます。
人間は生から死へ向う一直線の生になってしまい、
円環することがない終点へ向うだけになってしまいました。

本作の映像から伝わる木々と水と風の香は
そんな過去の人間と森の関係へと引き戻します。
皆、生活は一変しても自然に対して感じる安堵や畏怖は
DNAに刻まれたものではないでしょうか。

あるいは我々が気を抜くと、例えば掃除を怠った家や庭は
木々が生茂り植物達が侵食していきますが、
我々が木々から離れていくことを追いかけているのかもしれません。
呼ばれるように森へと入り込むしげきと真千子の背中に、
二人の意思よりももっと大きな意思を感じるのでした。
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